2022/04/17イースター礼拝説教

「復活-全く新しい朝」マルコによる福音書16章9~14節

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 その朝はいつもとは全く違う朝でした。といっても、誰もが、いつもと変わらない朝を迎えたのです。しかし、その朝は全く違う朝となったのです。「週の初めの日の朝早く」世界は大きく変わりました。誰もがいつもと同じ朝を迎え、坂道を転がり落ちるように死へと突き進んでいる中で、命の源が萌え出るのです。人間が神さまを見失ってしまう罪が打ち破られ、死は命に飲み込まれてしまうと いう全く新しい朝を迎ました。しかし、新しい朝の訪れを誰も気が付きません。誰もが深い眠りの中で、目を閉ざし心を閉ざしているのです。しかし、この新しい朝を覆い隠すことも打ち消すことはもうできないのです。
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された
 新しい朝の訪れを告げたのは、誰あろう主イエス・キリスト御自身でした。イエスさまは墓から立ち上がられて、ご自身を顕わしてくださったのです。こうして新しい朝を迎えたのです。主を見捨てて逃げ去った者たちに、主を十字架につけた罪人に命を与えるために、主イエス・キリストは復活されたのです。不信仰という闇に光を与えるために主はよみがえられました。
復活された主イエス・キリストが最初に姿を顕されたのは、マグダラのマリアです。聖書は、「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と簡単にマグダラのマリアについて紹介しますが、マリアは幾重にも苦労を重ねた女性だったことが分かります。イエスさまに救われた後、マグダラのマリアは常に主と行動を共にし、イエスさまに従ってきました。イエスさまが十字架にかかった時も他の女性たちと共に遠くからずっと見つめ、遺体を墓に葬る時も確かに見届けたのがマリアです。ペトロをはじめとする11人の弟子たちをさしおいて、まずマリアにイエスさまは姿を顕されました。
 マグダラのマリアの驚きはどれほどのものだったでしょう。実際に墓が空になっていて、中にいた天使から主の復活を告げられたときにはには恐ろしさのあまり逃げ出しているのです。しかしマリアに、イエスさまは姿を顕してくださいました。主イエス・キリストが復活されたという身震いするような喜びの訪れを確認して、マリアはすぐにほかの弟子たちのもとに走り、この喜びの朝の訪れを告げるのです。

ヨハネによる福音書20章には復活された主がマリアに顕されたようすがこう記されています。
 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた (ヨハネ20:13-18)
 イエスさまが葬られた墓が空だったことに恐れを抱き悲しんでいたマリアに復活されたイエスさまは姿を顕されましたが、マリアはすぐに主だとは分かりません。しかしイエスさまに名を呼ばれた時に、イエスさまのお姿を見届けることができたのです。マリアはそれこそ喜び勇んで、泣き悲しんでいる弟子たちにイエスさまが復活されたことを伝えます。ところが、みんなは信じませんでした。

 このあと二人の弟子に主イエス・キリストが現れます。このことはルカによる福音書24章に詳しく記されています。
 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった(ルカ24:13-)
 二人の弟子がエルサレムから11キロあまり離れたエマオに向かって歩いているとイエスさまが合流するのです。しかし二人はイエスさまと旅をしているのに、そこにいるのが、イエスさまであるとは気づかないのです。この二人はイエスさまが復活されたことが信じられなかったから、一緒に歩いているのがイエスさまだとは気づかないのです。「違った姿でご自身をあらわされた」と記されていますから、地上の姿ではなく、復活された栄光の姿で顕されたのでしょう。ようやく聖餐式をするところで目を覆っていたものが取り除かれて、今まで一緒にいたのがイエスさまだと気づくのです。二人はマグダラのマリアと同じように喜び勇んでイエスさまが復活され、姿を顕されたことをほかの弟子たちの所に行って話します。しかし、やはり信じないのです。
 そしてとうとう復活された主イエス・キリストは、11弟子に姿を顕されます。弟子は12人だったのにイスカリオテのユダの裏切りによって一人欠けているのです。これが最初の教会の中心です。最初の教会、初代教会には欠けがあるのです。地上の教会は、完全な形で存在するわけではありません。しかし、欠けのある教会をイエスさまは受け入れてくださっているのです。
 11人が食卓についているときにイエスさまが姿を顕されました。エマオに向かった2人の弟子が、イエスさまと出会いながら分からなかったのに、食卓についたときに初めて一緒にいるのがイエスさまだと分かった(ルカ24:30-31)のと同じでした。11人の弟子たちもまた、復活されたイエスさまと食事を共にした時に初めて、イエスさまが復活され、共にいてくださるのだと気づかされるのです。  十字架につけられて確かに死なれた主イエス・キリストが、日曜日の朝復活されたことは、多くの証人たちによって伝えられました。しかし、それだけでは信じられないのです。この11人の弟子たちがまさしくそうでした。イエスさまに召し出され、いつもそばで主の御言葉を聞いていながら、信じられないのです。イエスさまから何度も、受難の後に復活されることを弟子たちは聞かされていたはずなのに、実際にイエスさまが復活したという知らせを聞いても信じることができないのです。
 弟子たちは、イエスさまから遠ざかっていくばかりでした。それなのに、イエスさまの方から弟子たちに近づいてくださり、一緒に食卓につき、パンをとって裂いてくださいます。このとき初めて、弟子たちの目は開かれるのです。
 このことが、今も聖餐式で行われているのです。どの教会の中心にも聖餐テーブルがおかれているのは、復活された主が礼拝の中心にいるという「しるし」です。
 礼拝の中心は十字架のように思いがちですがそうではありません。十字架は、主イエス・キリストが私たちを罪を贖い救うために十字架につけられたという、主の御業の「しるし」です。しかし、主が生きて働いておられ、この礼拝の中心にいて私たちを招き導いてくださるという現臨のしるしは十字架ではなく、聖餐のテーブルです。だから、私たちは十字架のもとで礼拝をするのではなく、聖餐テーブルを中心にして礼拝しています。もちろん、十字架が必要ないというのではありません。十字架の上でなされた主イエス・キリストの救いの御わざが教会で語られなかったならば、それは教会とは言えないでしょう。十字架によって私たちは救われているのですから大切なしるしです。しかし、主は復活されて今も生きておられるのだということは、聖餐式によって確認されるのです。

 マルコによる福音書16章9節以下には〔〕がついています。これは、マルコが最初に書いたものとは別に後から聖書に付け加えられた個所だと考えられていて〔〕がつけられています。といっても、括弧の中は価値がないというのではありません。括弧も含めて聖書なのですから。おそらくそれは、最初の教会においても、そして今の私たちにおいても、信じることと信じられなくなるこ繰り返され、本当に信じる信仰へと変えられたことをはっきりと記そうという意図から、マルコによる福音書に書き加えられたのだろうと思います。

 復活されたイエスさまは、ヨハネによる福音書20章19節を見ると「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに優しい言葉をかけてくださいますが、いつもやさしいのではありません。厳しい言葉もかけられるのです。復活されたイエスさまは、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」のです、それは、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったから」です。このときイエスさまは、十字架につけられようとするイエスさまを裏切って、逃げ出したことを責めておられるのではありません。主が復活されたことを見た証人が、何人も証言しているのを信じなかったことをとがめているのです。聞いて信じることをイエスさまは求めておられるのです。見ないで信じることの幸いな道を示しておられるのです。
 マグダラのマリアに、そして、二人の名もない弟子に、そして11人の弟子(使徒)にと、復活された主イエス・キリストがご自身を現された人間は、少しずつ増えていきます。それは、現在の私たちも数えられるまでに広がり増えていっているのです。復活の証人の資格を考えるならば、マグダラのマリアに最初に現れたことに注目することが出来るでしょう。彼女は、悪霊に取り憑かれているとして社会から相手にされなかった女性です。しかし、そのような最底辺にいた女性が、最初の復活の証人になるのです。主を信じ、復活された主が今も生きて働いておられるという事実を信じられたならば、誰でもキリストの証人・キリスト者になれるのです。

 信仰への招きというものは、信じることと信じないこととの繰り返しの中で行われると思います。すべてを信じていたつもりなのに信じられなくなる、あるいは主の言葉は信じられるけれども、奇跡は信じられない。さらに、主イエス・キリストが十字架にかかったことは信じられるけれども、復活は信じられないというように部分的に信じたり信じなかったりすることがあります。あるいは、昨日まであれほど熱心だった人が突然教会を離れてしまうこともあります。私たち自身も、いつも変わらずに熱心だったかというと、そんなことはないでしょう。私たちの信仰生活を振り返った時に、弟子たちに負けず劣らず、しばしば信仰を疑い、あるいは信仰を失ってしまうという不信仰が、私たちにたびたび襲ってきているのではないでしょうか。
 しかし、主イエス・キリストはそんな私たちの不信仰のただ中で復活され、私たちを信仰へと導いてくださいます。復活されたイエスさまが、不信仰な私たちを憐れんで真の信仰を与えてくださいます。そうです。私たちの罪のために十字架にかかってくださった主イエス・キリストは、私たちのために、つまり、あなたのために日曜日に復活されたのです。だから、今日は全く新しい朝なのです。

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