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「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。」 (箴言24:16) これは私は、「七転び八起き」ということわざのルーツであると思っていますが、違うでしょうか。上記の聖句は新共同訳聖書では「神に従う人は七度倒れても起き上がる」と訳されています。聖書においては、「正しい人」=「神に従う人」ですから、そのように訳しているのでしょう。七度も転んだら、さすがに落ち込み、立ち上がって前向きに生きる気力もなくなりそうですが、神さまが助けてくださるから、また希望を持っておき上がることができるという意味です。 「剣を取る者は、剣で滅びる」 (マタイ福音書26:52) 暴力や武力によって解決をすることを否定する言葉ですね。歴史を見ても、武力で次々と諸国を制圧した国が武力によって滅ぼされたということが繰り返されています。また、暴力で人を屈服させていた人が、暴力によってひどい目に遭うということがあるものです。 「目からウロコ」 (使徒行伝9:18) 一般には、今まで分からなかったことが、すっきりと分かったり、迷い悩んでいたことの解決が与えられたりしたような時に使われる言葉です。これも聖書から出たことわざなんですね。 「ハレルヤ」 (詩編106:1、150:1、黙示録19:1、など) 「ハレルヤ」という言葉は、ゴルペルはもちろんのこと、キリスト教の歌ではなくても、ポップスなどのいろいろな歌でも使われるようになりました。「ハレルヤ」とは、「主(神)をほめたたえよ」という意味のヘブライ語です。 「豚に真珠」 (マタイによる福音書7:6) これは「猫に小判」と並んで、有名なことわざになっています。聖書原文では、「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」となっています。 「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。」(マタイによる福音書6:34) イエス・キリストの「山上の説教」と呼ばれる有名な説教の中の言葉です。いろいろな心配事があります。お得意さんとのこと、職場や家庭内の人間関係のこと、やらなければならない仕事のこと、経済的なこと‥‥ストレスがたまります。生きる希望がなくなってしまいます。このキリストの言葉は、あなたが心配しなくても、ちゃんと神様が心配していて下さると言うのです。神様は、1羽の鳥さえも、自然の中で養っていて下さる。たった1羽の鳥でも、心配して下さる神様は、あなたのことも心配して下さるし、生きていけるように道を用意していて下さるというのです。 「敵を愛し、迫害するもののために祈れ。」(マタイによる福音書5:44) たとえば「世界中の人を愛する」と言うことは簡単なことかもしれません。自分に直接関係のない人を愛するのですから。しかし「あなたの敵、あなたにいやなことをする人、いつもあなたを困らせる人、あなたをひどい目に合わせる人を愛しなさい。」と言われたら、簡単なことではないのではないでしょうか。その憎い人のことを思い出すと、とても「愛する」ことなどできません。無理です。しかしこの言葉は、天の父なる神さまは、いやな人でも憎い人にも、雨を降らせ、太陽を昇らせているというのです。この言葉は、自分であなたの敵に復讐したり、仕返しをしたりしないで、神さまに任せなさい、ということです。神様がちゃんと良いようにして下さる。だから、あなたはあなたの敵に親切にしてあげればいいのだ、というのです。 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書12:24) もともとは、キリスト・イエスが十字架に向かっていくときの言葉です。イエスさまが十字架にかかる前は、誰ひとりとしてその本当の意味を理解しませんでした。誰も分からなかったのです。しかし、イエスさまはそういう無理解の中を、十字架へと向かいました。そして十字架でイエスさまが死ぬことによって、初めて豊かな実を結ぶことになると言うのです。十字架でのキリストの死によって、逆に多くの人を救い、生かすことになる。そのキリストの十字架の結末のことを言っているのです。それが転じて、ある未開拓の分野の目的のために生涯をささげ、生前は理解されないままに終わったが、後にそれが評価されて、多くの人々に影響を与えることを言うようになりました。 「目には目、歯には歯」(申命記19:21、出エジプト記21:24、レビ記24:21) 旧約聖書の「モーセの律法」と呼ばれるものの中の言葉です。この意味は、誰かと争って相手を傷つけた時に、相手が傷ついたのと同じだけのダメージを自分も負わなければならないというものです。つまり、相手の「目」に傷を負わせたなら、傷を負わせた方の目を同様に傷つける。またそれが、相手の歯を折ったならば、折った人の歯を折る、というものです。そういう刑事罰が課せられたのです。一見残酷なようですが、よく考えると、それ以上の復讐をさせないと言う点では、よくできている刑法だということもできます。つまり、目を傷つけられたからといって、相手を殺してしまってはならないのです。 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:7) この言葉には続きがあります。"求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。" |