(1) このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
(2) このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
(3) そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
(4) 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
(5) 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
すでに得ている平和
1節に、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから」とあります。「義とされた」のです。わたしたちは、本来は神さまの御心に反した行いをしている、つまり罪を犯しているので罪人であるわけです。しかしそれがイエス・キリストを信じたときに「義とされた」のです。義ではなかったのに義とされた。神さまの前に、良しと認められたということです。
「義とされた」ということは、これから義とされるかもしれない、ということではないわけです。もしかしたらこれから神さまが、わたしたちを義としてくださるかもしれない、ということではありません。もうすでに「義とされた」のです。罪人であるにもかかわらず、イエスさまの十字架によって、その罪を赦され、義とされ、神の国の住人とされているということです。
続く言葉にも、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と書かれています。「神との間に平和を得ている」というのです。わたしたちと神さまとの間が、平和になっている。‥‥平和の反対は、争いがあるということです。イスラエルとパレスチナとの間に長い争いがあります。お互いで、血で血を争う抗争が終わる気配すらありません。わたしたちと神さまの間も、そのようでありました。エデンの園で、アダムとエバの犯した過ちによって、人はエデンの園を追放されました。それはわたしたちの罪のために、神さまとの間に平和が崩れたことをあらわしています。それでエデンの園を追放された。つまり、神の国から締め出されたのです。
しかし今や、イエスさまを信じることによって「神との間に平和を得ている」ということです。キリストの十字架によって、神との間に和解がなされ、わたしたちと神さまとの間に「平和を得ている」。すでに平和なのです。これから平和となる、ということではありません。もう神さまとの間が平和になっていて、すでに信仰によって義とされている。もうすでに神さまに受け入れられているのです。
そしてその結果、わたしたちは何をいただいているかというと、「神の栄光に預かる希望」をいただいているというのです。「神の栄光」、それは究極的には、天国のことです。津には神の国、天国で主の栄光に預かって、永遠に神を礼拝して生きることが約束されている。このことがまずはっきりとあるのです。
苦難のとらえ方の変化
さらに3節に行きますと、「苦難」という言葉が出てきます。苦難。苦しいことは避けたいものです。だれも好きこのんでそんな苦しみに会いたくない。「神を信じていれば、苦しみに会うことはなくなる」と思う人もいるかもしれませんが、実際はそうではありません。やはりつらい出来事が起きる。自分の思い通りに行くわけではありません。「神さまを信じているのに、どうしてこんな苦しみに会うのか?」と信仰が揺らいでしまいそうになることさえあるかもしれない。
しかしたしかなことがあります。それはきょうの聖書で述べられているように、すでに「義とされた」のであり、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に」すでに「平和を得ている」ということです。つまり、「神の栄光に預かる希望」をたしかにいただいているということです。神の国、天の国に受け入れられることになっている、ということです。
以前、能登半島の北端の町である輪島にいたときのことです。家内の兄たちが車で遊びに来たことがありました。到着が夜になる予定でした。夜になって、「そろそろ着くかな」と思っていたとき、電話が鳴りました。取ると、兄からで、「この道を走っていけばいいのかどうか心配になった」というのです。「能登有料道路を降りて、輪島の標識通りに走っていって、やっと家が建っている集落に来たので、ここが輪島かと思って走っていたら、また家が何もなくなって、街頭も何もない真っ暗な道になってしまったし、他にほとんど車が走っていないので、本当にこの道を行けばいいのかどうか心配になった」というのです。わたしは電話の向こうで、その付近の状況を聞いて、「その道で間違いない。そのまま道なりにまっすぐ来なさい」と言いました。そうしてしばらくしてから到着しました。標識通りでまちがっていなかったわけです。
わたしたちも、主イエス・キリストを信じているのですが、この人生の道を歩んでいるときに不安になることがあります。苦難に出会って、「本当に神さまはいるのだろうか?」とか「本当に神さまはともにいてくださっているのだろうか?」というような不安を覚えるのです。
しかし確実なことがあるのです。それがきょうの聖書が語っていることです。わたしたちは罪人として神に受け入れられないのではない。すでに「信仰によって義とされた」と言われているのです。「神との間に平和を得ている」と言うのです。もうわたしたちは、主イエスを通して、神に受け入れられていて、その行き着く先には神の国が用意されているのです。今、わたしたちのうちのある人が通っている道は、曲がりくねったり、あるいは街頭もない暗い夜道のような所を通っているかもしれない。デコボコ道かもしれません。そして、霧がかかって見通しが悪い道かもしれない。‥‥しかし、たとえ道の途中は霧がかかっていてどうなっているのかよく分からなかったとしても、目指す神の国はすでにみことばを通して、山の上の方に明るく輝いて見えているのです。その道は確実に神の国に到着する、このことはたしかであるということです。到着する場所は分かっているということなのです。確実にそちらに向かっているのです。
このことをしっかりと覚えたいと思います。
苦難から希望へ
それからもう一つ分かっていることは、5節の最後にありますが、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」ということです。つまり主イエスを信じることによって聖霊が与えられ、それは神の愛が注がれているということです。すなわち、苦難にもかかわらず、神の愛が注がれているということになります。
3節でパウロは、「苦難をも誇りとします」と述べています。苦難によって落ち込むのではなく、反対に「誇る」というのです。ふしぎです。この「誇る」という言葉は、口語訳聖書や新改訳聖書では「喜ぶ」と訳されています。「誇るほどに喜ぶ」ということでしょう。苦しいこと、あるいは何か問題が起こると、ふつうわたしたちはイヤになります。疲れ果てます。悩みます。ところがパウロがいうには、喜び誇るというのです。いったいなぜそんなことができるのでしょうか。
それはまず、先ほど述べたように、苦難があったとしてもわたしたちが主イエスによって、神の子とされていて、神の国・天国に至ることが約束されているという大前提があります。神の国にたしかに向かっていく中での、途中の苦難なのです。ですから、いくら苦難があったとしても、それはいつまでも続くものではありません。最後には、主イエスによって確実に神の国に招き入れられる。そして、今現在も、主イエスを信じることによって聖霊が与えられており、神の愛が注がれている。
そしてなぜ苦難をも喜び誇ることができるのか、ということに関して、次にパウロがここで語るのは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということです。
苦しみに遭遇することで、忍耐が生じる。なぜ忍耐が生じるかと言えば、繰り返しになりますが、やがて神の国に到着することが確実に約束されているからです。いつまでもこの苦難が続くのではないことを、主イエスの約束によって知っているからです。だから忍耐が生まれていく。
聖書が語る苦難とは、意味も目的もなく苦しみがあるというのではない。「苦難は忍耐を」生むという。しかしその忍耐は、たしかに神の国へ向かっているという中での忍耐です。神の愛が、苦難の中でも注がれているという、その中での忍耐です。
だからその忍耐は「練達」を生み出すと言います。「練達」という言葉はギリシャ語では、「試験をする」という意味がもともとの意味です。新約学者の竹森満佐一先生は、この意味を、「金の細工物を作るときに、どれだけ純粋に金が入っているか」というテストであると言っています。「かん難によって養われた忍耐によって、人間の中の不純なものが除かれて、ますます純粋になること」だと書いておられます。そしてそれは、「もっともすばやく神により頼む魂のことである」と本の中で述べておられるのです。
すなわちわたしたちは、苦難に出会うことによって、忍耐が生み出される。その忍耐が練達を生み出す。すなわち、わたしたちの心の中の不純物が取り除かれて、いよいよ神さまにより頼むことを学んでいくのです。そして再び「希望」が生み出される。
この世では「希望」というと、あまりたしかではないことを言います。「それは希望にすぎない」などと言います。しかしここで言う希望は違います。「希望はわたしたちを欺くことがありません」という、たしかな希望なのです。確実に約束されている希望なのです。
隣人の気持ちが分かるために
「神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っています。「神の愛」というのは、神がわたしたちを愛してくださっているという愛であると共に、わたしたちを隣人に向かわせる愛です。
わたしたちが苦しみに合わなかったとしたらどうでしょう。それで他の苦しんでいる人の気持ちが分かるでしょうか。病気になったことがなければ、病気の人の気持ちは分からないでしょう。苦しみにあったことがなければ、苦しんでいる人の気持ちは分からないのです。また、苦しみから立ち上がった人が、苦しみの中にある人をなぐさめ、励ましを与えることができるのです。
そうだとすれば、神を信じるものに苦しみが臨んだとき、それは他の苦しみにある人を励まし、また神のもとに導くために苦しみが臨んだとも考えられるでしょう。そしてその苦しみの中で忍耐が生み出され、忍耐が練達を、練達がたしかな希望を生み出すとすれば、それこそ他の人にキリストによる大きな希望を与えることができるのです。だとすれば、苦しみが与えられたということは、神さまに見捨てられているどころか、反対に神さまに愛されているのです。
神さまに信頼されているからこそ
わたしたちが社長だとしたらどうでしょうか。わたしたちが社長で、会社が大きなプロジェクトに取り組もうとしている。その時、だれにそのプロジェクトを頼みますか?もちろん、わたしたちが一番信頼している部下にその仕事を任せるでしょう。任された部下はたしかにたいへんです。しかし信頼しているからこそ、その部下に大きなプロジェクトを任せるのです。
同じように、神さまがもし、試練を与えるとしたら、それは信頼している人に与えることでしょう。信頼されているからこそ、大きな試練が与えられるのです。もちろん、わたしたちの主は、試練を与えっぱなしではありません。聖霊によって、主はわたしたちと共に歩まれ、その重荷を担ってくださるのです。そうしてわたしたちは、練達を生み出され、たしかな希望を生み出される。そして他の人を励ますことができる人になっていくのです。苦しみが、主と共に歩むことによって成長をもたらすのです。主はわたしたちをそのように、神の愛を証ししていくことのできる人となるように、用いたいのです。
苦難をも誇りとする
ですから、苦難があるということは、神さまに信頼されている、神さまに愛されているのだと言うことができるのです。だからパウロは、「苦難をも誇りとします」と述べているのです。
昨年、わたしは『あっこちゃんの日記』(キリスト新聞社)という本を読み、いたく心を打たれ、皆さんにも紹介しました。あっこちゃんこと亜紀子さんは、3歳で急性リンパ性白血病を発病し、8年間の闘病生活の末、11歳、小学校5年生の時に天に召されました。当時の白血病は不治の病でした。しかしあっこちゃんは、つらい治療に耐えました。そして小学校4年生の時、同じ病室に入院していた女の子の導きで、イエスさまのことを知り、近くの荒川教会に通うようになりました。そして4年生の時の8月22日に、お母さんといっしょに洗礼を受けました。その時の日記を以前ご紹介しました。こう書かれていました。‥‥「きょうは、わたしとお母さんの洗礼式です。待ちに待ったというか、二、三日前はドキドキしていたけれど、今はとてもうれしいです。ですから、きょうはお母さんもわたしもはりきって行ったのに、お母さんは泣いてしまいました。わたしは泣きませんでした。なぜ、泣くことがあるんでしょう。これからは、イエス様にすがって信じていけばよいのです。私は今日、とてもうれしかったです。みんなが私のことを祝福してくれて、みんないっしょに喜んでくれたのです。‥‥」
イエスさまのことを知ってからというもの、あっこちゃんの心は、イエスさまと堅く結びつき、それからの日記は、イエスさま、イエスさまと、イエスさまのことが多くなり、そして日記の最後はお祈りで締めくくられるようになりました。それも、友達や、同じ入院患者さんのことを祈る祈りです。
そして冬を迎え、病気は末期を迎え、春を迎えた3月11日、あっこちゃんは天に召されていきました。苦しい息の中で、「イエスさま連れて行って」と言って。最後の言葉は、「ごめんね」と、両親にお詫びして召されていったのです。
どんなに苦しかったことでしょうか。でもあっこちゃんにとって、どんなにイエスさまがたしかな希望だったことでしょうか。そしてこのあっこちゃんの日記が、どれほどわたしたちを励まし、力を与え、キリストへの思いを強くしてくれることでしょうか。
わたしたちも苦難を通して、より深く神を知っていくのです。そして神さまの愛を知っていくことができるのです。そして、他の人々に励ましを与える神の器として、用いられていくことができるのです。