「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(Uコリント12:7)
「神さまを信じているのに、どうしてこのような苦しみにあうのか?」これは、信仰者が直面する大きな問いです。わたしもかつて、病の中にあったとき、また非常に困難な出来事があったとき、そのような疑問に苦しんだことがありました。
この問いに答えるのは簡単なことではありません。なぜなら、わたしたち人間には、苦しみの理由というものが、なかなか分からないからです。例えば、ヨブは全財産を失い、子供たちを失い、さらに健康さえも失い、もっとも身近にいたはずの妻からも「神を呪って死ぬ方がまし」と言われてしまうほどの苦しみにあいました。ヨブにそのような苦しみが臨んだのは、ヨブが悪かったからというのではなく、天において神さまとサタンとの問答に由来していると書かれているのですが(ヨブ記1章)、そのことはヨブの知らぬことでした。だからヨブは、いわれなき苦しみを味わったのです。
使徒パウロは、世界に向かってキリストの福音を宣べ伝える者として用いられました。さらに彼を通して、多くの病人がいやされました(使徒14:10、19:12他)。ところがそのパウロ自身は、何かの病気もちだったようです。標記の聖句の「とげ」とはそのことです。コリントの町に行った時には、衰弱しきってしまったほどです(Tコリント2:3)。
主に従ってキリストの福音を宣べ伝え、多くの病人を癒すよう用いられたパウロが、なぜ自らは病気で苦しんだのか。それは、パウロが主から見捨てられたからではなかったのです。自分が「思い上がらないように」与えられたトゲだったのです。パウロは、「第三の天」にまで引き上げられるという不思議な体験をしました(Uコリント12:2)。普通の人にはないような経験です。そのために、「自分は特別に神から選ばれた大人物だ」というふうに思い上がってしまうかもしれない。そのように高慢にならないように、神のゆるしのもとに、トゲが与えられたと述べているのです。パウロは、病気が自分を痛めつけるたびに、主の前にへりくだって祈ったことでしょう。他の病気の人を見ても、「信仰が足らないからだ」などと残酷なことを言わず、その人に同情し、共に祈ることができたでしょう。それはパウロ自身もトゲが与えられていたからです。
もちろん、病気や苦しみのすべてがこのことで説明できるわけではありません。しかし、わたしたちの髪の毛1本まで数えてくださるほどに、わたしたちのことを愛し、導いてくださる主が、わたしたちをお見捨てになったのではないということは確かです。十字架にかかるほどにわたしたちのことをかけがえのない者と見てくださる主イエスが、わたしたちの苦しみを放置されるはずがないのです。そこには、神さまの何らかの目的やご計画があるのです。
実際、わたし自身、もし23歳の時に死にかけるという経験をしなかったとしたら、神さまの所に帰ってきただろうかと思うと、あの時の病気もまた感謝であったと言えるのです。
また、わたしたちが苦しみにあうとき、それはキリストの十字架の苦しみにあずかっているのだということも覚えたいものです。主イエスがむち打たれた痛み、重い十字架を担いでゴルゴタの丘へ向かわれた苦しみ、そして十字架に釘で打ち付けられた想像を絶する苦難です。わたしたちは苦しみに遭遇したとき、十字架の主イエスを思うことができます。その十字架の主イエスがわたしたちと共に苦しみにあずかっていてくださることを、そしてわたしたちも十字架の苦しみの端くれを担わしていただいていることを。
そして主は、わたしたちの苦しみをいつまでも放置されることがありません。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(Uコリント4:17-18)