(1) 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
(2) わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。
(3) あなたを祝福する人をわたしは祝福し、 あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
(4) アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
(5) アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
(6) アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
(7) 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
祝福されて生きるには?
神さまの祝福を受けて生きて行くには、どのようにしたらよいのでしょうか。
聖書を読むと、神さまが祝福する時には、ある法則のようなものがあることが分かります。それが、神さまは「祝福の器」として祝福するということです。「器」というものは、例えば料理をのせる食器のように、器自体に目的があるのではなく、器を使って他のものを運んだり用いたりするものです。「祝福の器」とは、神さまの祝福を他の人に運ぶために用いられる器・道具ということです。
わたしたちの信仰の父であるアブラハムはどうだったでしょうか。アブラハムは、多くのしもべや家畜を持つにいたりました。しかしそれは、アブラハムが自分だけの祝福を願ったからではありません。アブラハムは、まだイラクにいる時に神さまの約束の言葉を聞いて、その神さまの言葉を信じて従って、遠い見知らぬ土地に行きました。その神さまの約束の言葉というのは、アブラハムだけを祝福するという約束ではありませんでした。アブラハムの子孫を通して、地上のすべての民を祝福する、という約束でした。自分が死んだはるか後、自分の子孫を通して世界の人々を神さまの祝福にあずからせるという約束でした。つまり、自分以外の人々を神さまの祝福に導くという約束を受け入れ、願ったからこそアブラハムも祝福されたのです。
イスラエルの子ヨセフはどうだったでしょうか。ヨセフは、兄弟によって奴隷として売り飛ばされるという悲惨な出来事を経験しました。しかしエジプトで奴隷となっていたヨセフは、神さまの不思議な導きによって、王の見た夢を解き明かし、ついにエジプトの宰相にまで抜擢されました。これはヨセフが自分だけ良い思いをするために、神さまがえこひいきしたのではありません。宰相となったヨセフを通して、食物を蓄えさせ、大飢饉が見舞った時に人々を救うためでした。そして、自分を売った兄弟をゆるし、神のご計画が前に進むためでした。ヨセフも祝福を運ぶ器として用いられたのです。
新約聖書でも同じです。イエスさまが、御自分と共に山に登った5千人の人々に食事をとらせようとした時、弟子たちはそれは不可能だと思いました。しかし、ひとりの少年が、自分の持っていた5つのパンと2匹の魚をイエスさまに差し出しました。人間の目で見れば、5千人の人々に対してたった5つのパンと2匹の魚では、焼け石に水です。しかし主イエスは、その少年の差し出したわずかなものを感謝して、人々に配ると、主イエスの手の中で奇跡が起き、5千人の人々が満腹するほど食べることができたのです。(ヨハネによる福音書6:1-13)
イエスさまに自分の食料を差し出したこの少年は、自分だけが良い思いをして5千人分食べたわけではありません。やはりひとり分だけ食べたのでしょう。しかし彼は、イエスさまのすばらしい奇跡を目撃したのです。
祝福を運ぶ器となる
わたしたちは、自分が祝福されたいと思ったら、自分だけが祝福されることを求めてはなりません。ヤコブの手紙にこう書かれています。「得られないのは求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:2)
使徒ヤコブは、神さまに祈り求めても与えられないのは、自分だけの楽しみのために使おうという間違った動機で祈り求めるからだ、とはっきり書いているのです。自分だけの祝福を求めても、神さまは答えてくださいません。わたしたちは、祝福されたいと思ったら、みんなといっしょに祝福されることを願わなくてはなりません。自分の持っている5つのパンと2匹の魚をイエスさまに差し出した、あの少年のようにです。神さまが祝福なさるのは、さらにその祝福が、周りに広がっていくようにするためなのです。わたしたちが祝福されるためには、わたしたちが神さまの言葉を良く聞いて、神さまのご用のために用いられることを願い祈ることによるのです。自分がほめたたえられるのではなく、ただ神さまがほめたたえられることを願うことによるのです。
こうしてあなたも神さまの与える大きな祝福を受けて生きることができるのです。