マタイによる福音書・連続説教 45


「思い悩むな」 




 ●聖書 マタイによる福音書6章25〜30
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。



     生きるか死ぬかの問題

 「思い悩むな」と主イエスは言われます。
 何を食べるか、何を飲むか、そして何を着るか、そういうことで心を悩ませたり、心配することはない、というのです。私たちはこのイエスさまの言葉をどのように感じるでしょうか。
 現代の日本ではこの御言葉はしばしば間違って受け取られることがあります。‥‥それは、たとえば、「何を食べようかと思い悩む」ということについて言えば、「きょうの夕食は何を食べようか? 鍋物にしようか、それとも手巻き寿司にしようか?」どちらにしようか思い悩む、というふうに受け取られることがあります。「何を着ようか」ということについても、「きょうは紺のスーツにしようか、それともグレーのスーツにしようか」と迷い悩む、というように受け取られるのです。つまり、メニューがいろいろある中で、どれにしようかと思い悩む、あるいはたくさんの服がある中で、どれを着ようかと悩む、という意味にとられることがあります。しかしそれは大きな誤解なのです。
 イエスさまがどういうことをおっしゃったのかということを理解するには、このときイエスさまのまわりに集まって、お話を聞いている人々がどういう人たちであったか、ということを知らなければなりません。イエスさまの所にやってきたのは、いろいろな病気にかかって苦しんでいる人、そしてその家族、そしてイエスさまがそういう病気を癒されたということを聞きつけて集まってきた多くの群衆でした(4:24-25)。‥‥このことは他の聖書の箇所を会わせて読むと分かりますが、イエスさまの所に集まってきた群衆というのは、当時のふつうの庶民だったのです。そして当時の庶民というのは、今の日本の庶民よりもずっと貧しかったのです。日本も今は経済大国となりました。かく言う私自身、本当の「貧乏」ということを知らないで育った一人です。しかし、昔の日本では、もっと人々は貧しかったのです。例えば100数十年前の江戸時代では、「水呑み百姓」というのが一般的な日本の庶民の姿でした。はっきり言えばその日暮らしです。そして干ばつによって飢饉が来ると、多くの人が死んでいったのです。1件の家には、今よりももっと多くの子供が生まれましたが、人口全体は少しも増えることがありませんでした。栄養失調や、伝染病などのため多くの子供たちが大きくなることなく死んでいったのです。
 このイエスさまの時代も同じようなものだったと考えることができます。‥‥多くの庶民は、その日その日を生きていくのが精一杯という状態だったのです。たいていの人は、6畳一間というような小さな家に住み、家財道具といえば、鍋釜に寝床、それに服や道具を入れる箱(これは食卓にもなった)という程度のものでした。すなわち今から見たら、ずっとずっと貧しかったのです。イエスさまはそういう当時の貧しい一般庶民を前にして、これらの言葉を語られたのです。たくわえなどあまりない人々、その日その日を精いっぱい働いてやっと生きているような人々に向かって主イエスはこれらの言葉を語られたのだ、ということを覚えておく必要があります。
 また、イエスさまのすぐそばでこれらの話を聞いている人々はイエスさまの弟子たちでした。そのうちの、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレは、漁師だったということが分かります。また、マタイは徴税人で、一般の庶民よりは豊かでした。他の弟子たちが何の職業だったのかはよくわかりません。しかしいずれにしても、弟子たちもまた、ペトロが「網を捨ててイエスに従った」(4:20)ように、それぞれが自分の仕事を捨ててイエスに従っているのです。何の保証もないままにです。明日の生活を保障する収入がないまま、イエスさまに従っているのです。
 こうして考えてみると、イエスさまが語られた「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」ということばは、余裕のある人に向かって語られたのではない、ということが分かります。それどころか、食べるのにやっとという、今日から言えば経済的にも貧しい人たちに向かって語られているのです。
 そうすると「何を食べようか」と思い悩む、というのは、いろいろとメニューがある中から、「ステーキにしようか、シチューにしようか」と思いわずらうことではなく、はっきり言えば、「きょうの晩御飯は食べられるだろうか、晩御飯の材料を買うお金はあるだろうか」と思いわずらうことなのです。ずっと切実なのです。生活がかかっているのです。命がかかっているのです。「何を着ようか」と思いわずらうのも、「どの衣装が似合うだろうか?」と迷うということではなく、「この服ももうダメになりそうだ。しかし、新しい服を買う余裕はない。どうしようか。」と思いわずらうということなのです。ぎりぎりのところにきているのです。
 だからイエスさまは、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とおっしゃったのです。自分の命に関わることで、自分の体の健康に関わることで、という意味になります。
 そうしてみると、このイエスさまの言葉は、ずいぶん重みのある言葉になります。「明日、食べるお米がない!お米を買うお金もない!」本当に困った‥‥そういう人にとって、このイエスさまの言葉は、ものすごい現実的な、差し迫った迫力を持っているのです。

     他人事ではない

 今日の日本では、いざとなれば生活保護もあるし、ということで、それほどの差し迫った問題は、すくなくとも食べるとか着るということについては、あまりないでしょう。
 近年、自殺がものすごい勢いで増えているそうです。1999年には、33,048人の人が、この日本で自殺をしたそうです。これは統計を取り始めて以来、過去最高の数字だそうです。その前年の1998年は31,784人で、うち男子22,388名,女子9,396名だそうです。ここ数年毎年3万人を超える自殺者が出ているのです。これは交通事故死の約3倍です。
 もちろん、自殺の原因というものは、それぞれのケースがあり一概に言うことは慎まなければなりません。しかし自ら命を絶つことに追い込まれた方の心境はどんなに深い悩みの中に置かれたことかと拝察いたします。「もう生きることができない」「生きていてもしかたがない」というような、まさに命のことで思い悩み、思い詰めたところに自ら命を絶たざるを得なかったということがあるのではないかと思うのです。
 そんなところまで行かないかもしれないが、苦しい現実に直面したことは、だれにでもあるのではないでしょうか。私自身、以前体をこわして会社をやめたときは、そこまでいかなくても、やはり前途に希望を見失ったということがありました。何をやってもダメになってしまうように見えたものです。
 なるほど、たしかに食べること、着ることには、差し迫ったピンチはないかもしれない。しかし、行く道に希望がもてないために、やはり明日をどう生きるのか、真っ暗で、不安だけがあるということはあるのです。そうすると、それもやはり、自分自身の命に関わってくる問題です。けっして、昔話ではないのです。

     主イエスへの反発

 そういう思いできょうのイエスさまの言葉をあらためて聞いてみると、いかにすごいことをイエスさまが言われているのか、ということが分かってきます。
 明日食べる物もなくなってしまった。あるいは、明日生きていく力を失ってしまった。言ってみれば、そういう人がこの言葉を聞いたとき、この言葉は本当に真実かどうかということです。イエスさまの言葉が本物であるかどうかが、問われるのです。そしてイエスさまが言われる以上、そういう人にとってもこの言葉は真実であるに違いないのです。
 このイエスさまの言葉を聞いて、おそらく真剣に明日のパンのことを考えざるを得ない人々は、まず反発したのではないかと思います。「思い悩むな、とおっしゃいますが、別に好きで思いわずらっているわけではありません。明日食べるパンがないから、それを買うお金もないから、心配せざるを得ないではないですか!当たり前ではないですか!」と、反発したくなるのではないでしょうか。あるいは、「私を押しつぶそうとする、この大きな問題があるから思い悩んでいるのです。好きでこんなに苦しくなっているのではありません!」と、言い返したくなると思うのです。

     問題に目を向けるのではなく、神に目を向ける

 空っぽの米びつ、空っぽの財布‥‥どうしてもその、「ない」ということに目が行きます。山のような問題、どうしてもその問題に目が行ってしまいます。それはある意味では仕方がないことかもしれません。小さなトゲでも、刺されば痛くて、それにばかり目が行くのは当然です。
 しかしイエスさまは、どうしても目を向けやすい思い悩むその原因にではなく、他のほうに目を向けさせます。
 イエスさまたちは、このとき、小高い山の上にいました。自然の中にいたのです。イエスさまはおそらくこの時、空の方を指さしたことでしょう。人々はいっせいにその指さすほうを見たことでしょう。するとそこには鳥が飛んでいました。のびのびと空を飛んでいる鳥がいたのです。そして言われました、(6:26)「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」 イエスさまは、人々の苦しい現実ではなく、空を飛んでいる鳥に目を向けさせました。そして、その背後で鳥を養っている、天の父なる神さまに人々の目を向けさせたのです。
 父なる神さまは目には見えません。しかしその神がつくられた鳥を見ることはできます。そしてその鳥を養っていて下さる神さまに、私たちの目を向けさせるのです。父なる神さまは、その鳥を養うのと同様に、あなた方をも養って下さる、と。なるほど鳥は自殺をしません。目の前にある物を食べ、与えられた自然の中で生きています。

     神様から見たら、あなたは尊い価値ある存在

 主イエスは言われます。(26)「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 みなさんは、自分が空の鳥や野の花よりもすぐれたものだと思いますか? しかし私はかつて病の中にあったとき、どんなに空の鳥がうらやましく思えたことでしょうか。自分が惨めで、鳥のほうが優れているように見えたことでしょうか。
 しかし、私たちの主イエスさまは言われるのです。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と。この私たちは、何一つ世の中の役に立たないかもしれない。あるいは、今困難な問題に直面しているかもしれない。しかし私たちの主イエス・キリストは、断固としておっしゃるのです。「あなたがたは、鳥よりも価値がある」と!
 なぜそんなことが言えるのでしょうか?なぜ、鳥よりも花よりも、私たちのほうが価値がある、などということが言えるのでしょうか。
 もしその理由があるとしたら、それは、このようにおっしゃったイエスさまご自身が、この私たちのために十字架にかかって下さったからです。神の子イエス・キリストが、この私たち一人一人のために十字架にかかって、いのちを投げ出して救って下さったからです。イエスさまは、鳥や花のために十字架にかかられたのではなく、このなんの値打ちもないような私たちのために、十字架にかかってくださったからです。だから、私たちは、鳥よりも、花よりもすぐれている、少なくともイエスさまから見たら、神さまから見たらそうなのだ、というのです。感謝です。
 だとしたら、鳥や花を養っていて下さる父なる神が、どうしてあなた方を養って下さらないはずがあるだろうか。御子イエス・キリストを十字架にかけてまで愛して下さっている神が、どうしてあなた方を養って下さらないはずがあるか、と。
 「信仰の薄い者たちよ。」(30)‥‥イエスさまに叱られました。しかし、叱られてうれしいとはこのことです。イエスさまが叱るほどに、父なる神が養って下さることは本当だ、これを信じてよいのだ、ということですから。神が私の心配をして下さるのです。
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