マタイによる福音書・連続説教 31


「怒りからの解放」 




 ●聖書 マタイによる福音書5章38〜42
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」"



     仕返しをせずにはおれない私たち

 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
 これは世の中でも知られている、たいへん有名な言葉です。しかし一体だれが、このような言葉を受け入れることができるでしょうか。クリスチャン作家の椎名麟三の言葉を借りるならば、これは「人間性を超えている要求」のように聞こえます。私たちは、右の頬に平手打ちを食ったとしたら、すぐさま相手のほっぺたに平手打ちをお返ししなければ気が済まないのではないでしょうか。こちらが何も悪いことをしているのでもないのに、誰かから平手打ちをくったら必ず仕返しをしなければ気が済みません。
 あるいはそのような実際の暴力ではなくとも、例えば悪口を言われたら、その何倍もの悪口を言い返さなくては気が済まない。それがふつうです。
 子供のケンカを見ていてもそうです。何かの拍子に子供が他の子をたたく。すると相手は怒ってたたき返す。すると、「そんなに強くたたかなかったのに!」と言ってまたたたき返す。それが次第にエスカレートして収拾がつかなくなるのです。そして親に叱られる。そんな光景を私もイヤと言うほど見てきました。
 大人も全く同じではないでしょうか。
 日本の国民的な物語=「忠臣蔵」が、まさに復讐をテーマにした物語であり、それに日本人は何百年も共感しているわけです。もちろんこれは日本人だけのことではない。アメリカ映画を見ても、家族を殺した悪党たちに復讐するために命がけで挑んでいく映画はいくらでもあります。
 そのように、「やられたらやり返す」、また、「相手にダメージを与えた者は、同じようなダメージを受けなければならない」と考えるのは、人間の自然なことです。浅野内匠頭ばかりが切腹を命じられお家取りつぶしとなり、いじわるをした吉良上野介は何のおとがめも受けない。これは不公平である。よって本懐を遂げて吉良を成敗した赤穂浪士は賞賛されるべきであるというのが、ふつうの考え方であり溜飲が下がることであるのです。
 しかるにイエスさまは、「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とおっしゃったのです。このようなことを簡単に受け入れることはできないのです。

    「目には目を、歯には歯を」

 「目には目を、歯には歯を」‥‥これは、旧約聖書のモーセの律法に出てくる言葉です。例えばレビ記の24章にはこういう言葉が書かれています。‥‥「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(レビ記24:19-20)
 私は「目には目を」という言葉を聞くと、どういうわけか子供の頃テレビで見たプロレスを思い出してしまうのです。アントニオ猪木だったように思うのですが、悪役レスラーがレフリーに隠れて反則の凶器を使い、猪木は出血をし、負けてしまう。その時だったと思うのです。猪木がテレビのマイクに向かって、「目には目を、歯には歯を!」と叫んで、復讐を誓ったのです。‥‥もちろん、プロレスはショーでありますから、それもパフォーマンスの一つでしょう。
 しかしこの旧約聖書の言葉が、有名な言葉であることには違いがありません。ただ一般には少々誤解されて使われているようです。つまり、一般には、この有名な言葉は単に「復讐すること」を表している言葉であるようにとられています。
 しかし正確に言うと実はそうではない。むしろこれは、復讐を制限した律法なのです。なぜなら、ふつう何も悪いことをしていないのに、例えば片目をつぶされたとしたら、どうでしょうか。相手の目を片方同じように仕返ししてつぶしたぐらいで気が済むでしょうか。むしろ「殺してやりたい」ぐらいに思うのがふつうではないでしょうか。‥‥世間でよく起こる殺人事件は、悪口を言われて腹を立てて殺してしまうというのがふつうです。目をやられた、歯を取られた、というどころではない。悪口を言われた程度で、徹底的に相手をやっつけてやるというのが人間です。「目には目、歯には歯」どころではすまないのが人間の気持ちです。
 ですから、旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」という律法は、もともと自分が受けたダメージ以上の復讐を禁じる律法であるのです。復讐を奨励した律法なのではなく、復讐を制限する律法なのです。ですから、人を殺したらその人も同じように死刑となる、人の骨を折ったら、その人の骨も同じように折られることになる、傷を負わせられたら同じような傷を相手も負う。しかしそれ以上の復讐を禁じる‥‥そういう裁判をせよと、モーセの律法には書かれているのです。そのように、そもそもイエスさまが引用した旧約の律法は、復讐をある程度制限した戒めでした。

     仕返ししないでがまんする?

 そしてイエスさまは、それをさらに押し進めて、復讐をするなとおっしゃる。それどころか、右の頬を打たれたら左の頬も向けてやれとおっしゃる。‥‥ここには、単に復讐をするなというような、戒めではないものがあります。単に「復讐をするな」とお命じになるのであれば、「左の頬」まで向けてやる必要はないのです。「右の頬を打たれても、黙って我慢していなさい」と言えばすむはずです。しかし主イエスは、「左の頬をも向けてやりなさい」とおっしゃるのです。
 これはいったいどういうことなのでしょうか? どうして左の頬までサービスする必要があるというのでしょうか?
 そう考えると、このイエスさまの御言葉は、単に「復讐をするな、我慢しろ」と言うことではないことがはっきりします。そしてそのことは、そのあとの、「下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」という教え、そしてさらに、「1ミリオン(約1.5q)行くように強いられたら、一緒に2ミリオン行きなさい」という教え、そして最後の「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」という教えを読むともっとはっきりします。それらは、復讐とは別な話です。
 これは、単に復讐をしてはならない、という話しではありません。

     「愛」というキーワード

 「右の頬」の教えに戻って考えてみましょう。
 誰かが右の頬を打ったとして、どうして左の頬まで向けることができるのでしょうか?‥‥もちろん私にはそんなことはできません。しかし、もしそうすることがある場合があるとしたらどんな場合でしょうか?
 それはもうはっきりしているのではないでしょうか?‥‥それは、その相手を心から愛している、あるいは愛そうとしている場合です。それ以外には考えられないのではないでしょうか。相手が自分に訳もなく平手打ちをした。それはもちろん愛のない行為です。だから当然腹が立つわけです。しかし、相手が平手打ちを自分に食らわしたときに、その相手に対して深い憐れみが生じたとしたらどうでしょうか? 訳もなく暴力を振るうことはいけないことです。悪いことです。しかし相手は、「自分が悪いことをしている」ということに気がついていないのです。ではどうやって、相手に「自分が悪いことをしている」と自覚をさせることができるのでしょうか?
 ここでイエスさまが言っていることは、そういう問題なのです。これは、律法の話ではないのです。「自分がいかに、神の戒めを守って、罰を受けないようにするのか」という話ではないのです。ユダヤ人のファリサイ派の人々はそのように考えていました。=「モーセの律法をこのようにちゃんと守れば、神の罰を受けない。天国に入れてもらえる」と。つまり自分のことばかり考えていたのです。
 しかしイエスさまがおっしゃっていることは、自分の身をどう守るか、自分はどうしたら神の罰を受けないで済むのか、という話ではない。もっと踏み込んでいます。‥‥すなわち、人を愛するとはどういうことか、ということです。その悪い相手のことを心配しているのです。‥‥相手が自分を訳もなく殴った。また、借金の形に、無情にも上着まで取ろうとする。当時のユダヤ人の一般庶民にとって、上着は夜寝るときの毛布の代わりをしていました。だから上着まで借金の形に取ることは、布団を取り上げるのと同じことであり、それは禁じられていました。無情なことだからです。しかし、今、その上着まで取り上げようとする人がいる。それは理不尽なことです。‥‥そういう、理不尽な、自分勝手な行為を自分に対してする人がいる。そういう人にどう対したらよいのか?
 日本でいちばん多くの人が集まるプロテスタントの教会は、神奈川県の「大和カルバリー・チャペル」だと言われています。もともとはホーリネスの教会でしたが、今は単立教会です。そこの牧師は大川従道という先生です。現在58才。
 この先生は牧師の家庭に生まれました。そして、大川従道先生が小学校4年生の時に、静岡市の開拓されたばかりの教会に赴任したそうです。そこでの暮らしがたいへん貧しかった。毎日毎日芋とカボチャばかりを食べていたそうです。両親は主に献身した身であるから、どんなに貧しい生活を送ってもいいかもしれない。しかしその親のもとで巻き添えを食った従道少年は、おもしろくない。ことごとく親に反抗したそうです。一度父親に反抗したら、平手打ちを食らって吹っ飛んでしまった。それでそれ以来、もっぱら母親に反抗したそうです。一枚しかない外出着を破いてしまったり、母親の頭の毛を引っ張り、け飛ばしたり、踏んづけたり‥‥と、家庭内暴力をやっていたそうです。
 ところが母親は、いつも「今のお前は本当のお前ではないよ。必ず、将来、主に用いられる人物になるよ」と言って聞かせてくれたそうです。大川先生の母親は、どうしてそんなことができたのでしょうか。それは、まぎれもなく、子である従道少年を心から愛していたからです。もちろん、黙って我が子の暴力を見ているばかりが愛ではありません。時には、従道少年の父親のように、思いっきり平手打ちをお見舞いすることが愛でもあると言えます。
 しかしこの時、母親がなぜ我が子を見離さなかったのか。それも愛から出たことだと言えます。もちろんつらかったであろう。しかしこの母親が、荒れる我が子を前に、ひたすら「今のお前は本当のお前ではない。将来神様に用いられる人になる」と言い続けることができたのか。それは、ただ主なる神様を信じていたからということ以外の、何ものでもありません。
 大川先生の母親は、どんな貧しさの中でも決して愚痴を言わなかったそうです。そして口癖のように、「エリヤの神様は生きているよ」と言っておられたそうです。そして、明日食べるお米がなくても、感謝して床につく母の姿は驚きであり、たのもしくもあった、と大川先生は本の中で書いています。そして祈りが答えられて、早朝「ドスーン」という音と共に、玄関前に米俵が置かれているのを見て、信頼する者に恥をかかせたまわない神様の存在を学ばせられた、と書いておられます。

     神様にゆだねて、怒りから解放される

 みなさん。きょうのイエスさまの御言葉は、ただ主なる神さまを信じるときだけに成り立つ言葉です。それゆえ、イエスさまのこの言葉もまた、格言や名言とは全く違うことが分かります。イエスさまのおっしゃった御言葉は、神を信じるとはどういうことなのかを教えているのです。
 それは自分で復讐することをやめて、神様に復讐をお任せすることです。また、その理不尽な相手をさえも、神様は変えてくださることができる。いちいち復讐していたのでは相手は変わることがない、相手が神さまを信じることはないでしょう。また、自分自身も平安を失うでしょう。「いつか復讐してやる」という思いでいっぱいになり、悔しくて腹が立って、それでは神を信じないのと同じです。しかし神様にお任せすることができたとしたら平安です。自分自身は復讐心から解放されるし、また、「どうして私がこんな目にあわなければならないのか?」という怒りからも解放されるのです。
 まさに大川先生のお母さんが、主イエスを信じて、我が子の回心を信じていたように、いつか必ず気がついて、伝道者になってくれると信じていたように。神様に祈りをささげることによって、相手を愛する言葉です。
 主イエスは、この言葉の通りに歩まれました。もちろん、イエスさまが、相手のされるがままであったということではないのです。例えば「宮清め」の時は、神殿の境内で商売をしている人々の台や腰掛けをひっくり返して、追い出しました。腕力を振るわれたのです。しかしそれが、相手をやっつけるための腕力であったのではないことは、明白です。相手を目覚めさせるための力の行使でした。
 そして、十字架にかかられるときには、あざけりを受けるがままに受けられ、唾を吐きかけられるがままにされ、平手打ちを受けるがままに受けられました。そして、無抵抗のまま十字架におかかりになったのです。それが私たちを救う愛であったからです。
 イエスさまは、ご自分を見捨てて逃げていく弟子たちをも受け入れなさった。罰をもって報いなかったのです。それは、そんな自分勝手な弟子たちでも、神の力によって変えられる日が来ることを信じておられたからでした。そしてその通りになったのです。
 主は、こんなわがままで、自分のことしか考えないような私たちでも、変えられることを信じていてくださるのです。そうして次の続きの箇所に行くのです。主イエス・キリストにならう者へと、私たちは招かれているのです。

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