ヨハネによる福音書・連続講解説教 12

「新しく生まれる」

●聖書 ヨハネによる福音書3章1〜8

1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」





     ニコデモという人

 今日登場する人物は、ニコデモという人です。この人が、「ある夜」イエスさまの所を訪ねて来たという場面です。
 ニコデモという人はどういう人なのでしょうか。1節に書かれていますように、まず「ファリサイ派」に属する人でした。そして「ユダヤ人たちの議員」でした。
 ファリサイ派というと、イエスさまと対立したユダヤ教の厳格な派として有名です。ファリサイ派は「サドカイ派」と並んでユダヤ教の2大勢力でした。ファリサイ派は、イエスさまと対立し、サドカイ派と共にイエスさまを十字架へと追いやったグループなので、あまり良いイメージを持たれていないと思います。しかし彼らは、旧約聖書のモーセの律法を、彼らなりに忠実に守ろうとしていた人々でした。モーセの律法と、様々な宗教的戒律を忠実に守ろうとして努力していた人々でした。ですから、敬虔な庶民の尊敬を集めていた人々でした。禁欲主義で、自分自身を律することに努力していた人々でした。清く正しく、自分たちの精進によって神さまに近づこうとしていた人々でした。そして民衆に戒律を教えていた先生でした。
 そしてニコデモはさらに「ユダヤ人たちの議員」であったと書かれています。これは「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤの最高議会の議員であったことを意味しています。日本で言えば国会議員です。しかもニコデモは裕福な人だったようです。イエスさまが十字架で死なれたとき、このニコデモがイエスさまの遺体を葬るのを手伝ったのですが、その時ニコデモは大量の没薬と沈香を持ってきました。そのようなものは裕福な人でないと準備できないものでした。
 そのように、ファリサイ派の宗教家として熱心に神を信仰し、地位も名誉もあるという、この世の人間の目から見たら申し分のないような人がニコデモです。
 その人が、ある夜、イエスさまのもとを訪ねてきました。これは意外なことと言わなければなりません。というのは、イエスさまという方は、無名の人だったからです。それどころか、イエスさまは数日前エルサレムにやってきて、エルサレムの神殿の庭で商売をしていた人々を追い出し、エルサレムの祭司長や宗教家たちから敵意を受けることとなったのです。そういう無名のイエスさまの所に、ファリサイ派の宗教家、ユダヤ人の教師であり、議会の議員であるニコデモが訪ねてきたのです。
 イエスさまの所を訪ねてきたニコデモは、2節に書かれているように、イエスさまに挨拶をいたします。「ラビ」と呼びかけています。ラビというのは、ユダヤ人の律法の教師への尊称で、「先生」ということです。‥‥ニコデモは、ある程度年輩者であったと思われます。その年輩者のニコデモが、どこの馬の骨か分からないような年下のイエスさまに対して、そして自分たちファリサイ派と対立しつつあるイエスさまに向かって、「先生」と呼んでいる。しかも心からそのように呼んでいるようです。
 このようなことから分かってくるのですが、ニコデモという人は、たいへん謙虚な人であったと思います。偏見や先入観で人を見ない人です。
 2節のニコデモの言葉を見ると、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と述べている。‥‥ニコデモは、イエスさまがこのエルサレムに滞在している間になさったしるし、奇跡を見て、「確かにこの方には神が共におられる」ということが分かったのです。謙遜な目。人の噂や、見た目や、偏見・先入観にとらわれない。そういう真実を求める目が、ニコデモにはあったということが言えると思います。

     問答

 そのニコデモの挨拶に対して、イエスさまはお答えになる。3節です。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
 これは何か変な答えに見えますね。ニコデモはイエスさまに挨拶の言葉を述べているのに、イエスさまの言葉は全然対応していない。まるでニコデモが何を聞きに来たのかをあらかじめご存知であるかのようです。そしてその通りなのでして、3章の前の2:24にイエスさまが「すべての人のことを知っておられ」と書かれているとおりです。
 人の心の中にあることをご存知の主は、ニコデモが挨拶をした時点で、すでにこの人が何で迷っているかをご存知であったのです。ですからいきなり本題に入られました。そしてそれが実際にニコデモが、この夜相談に来た理由であることが分かります。すなわち、ニコデモの迷いは、「どうしたら、神の国を見ることができるか、どうしたら神の国に入ることができるか」という問題だったのです。
 わたしはここに至って、ニコデモという人が、本当に誠実で偉ぶったところのない、謙虚な人であることがはっきりすると思います。先ほど申し上げたように、ファリサイ派の先生として聖書と宗教には精通し、自分自身も厳しい戒律を守り、神さまにお仕えしている。地位も名誉もあり、年長者である。そういう人が、全く無名で、しかもユダヤ人の宗教家たちから敵意をいただかれているイエスさまの所に、身を低くして教えを乞いにやってきているのです。
 そこまでしてイエスさまの所を訪ねて行った理由は、やはりニコデモの心の中に、解決できない疑問があったのだと言えるでしょう。‥‥ニコデモは、ファリサイ派の一員として、厳格に旧約聖書のモーセの律法を守ってきました。人一倍守ってきました。熱心に神さまの掟を守ってきました。週に二度の断食もしています。安息日の掟も守って来ました。何を食べたらいけないかという食物規定も守ってきました。汚れたものからも遠ざかってきました。禁欲生活をしてきました。熱心に神を信じてきたつもりでした。人々に神さまのことを教えても来ました。‥‥しかし、しかしです。ニコデモの心の中の疑問は解決できなかったのです。そのようにしても、「神の国を見る」ことができなかったのです。「神の国に入ることができる」という確信がなかったのです。
 「神の国」という言葉は、「神の支配」と訳すこともできるのです。そうなると、「神の国」というのは、死んでから行く場所ということだけではありません。今、この世にいながらにして、神さまの支配にあずかる、神さまの支配が見える、神さまをそばに感じて生きる‥‥そういう意味にもなります。
 いずれにしろ、ニコデモは、神さまのことを教える先生でありながら、神さまが何か遠い存在に思われる。そういうことだったのです。そして、「神様のことをもっと知りたい」という、魂の飢え渇きのようなものがあったことでしょう。
 私が若い頃、まだ求道者であった頃のことを思い出します。‥‥その頃私は、とにかく「神さまのことを知りたい」という魂の飢え渇きでいっぱいでした。「神さまのことを知りたい」というのは、「神さまについての学問的知識を知りたい」ということではありませんでした。「神さまに会いたい」「神さま自身のことを知りたい」という気持ちでした。そして「神さまのことを知っている人」に教えを請いたいという熱烈な願いがありました。そして「求めなさい、そうすれば与えられる」というイエスさまのお言葉どおり、その願いはかなえられたのでした。
 ニコデモにも、そういう神さまを求める魂の飢え渇きがあったに違いありません。だから、恥も外聞もなく、地位や名誉や見栄もかなぐり捨てるようにして、イエスさまの所に身を低くしてきたのです。

     

 「夜」イエスさまの所に来たと書かれています。「人目をはばかったから、夜来たのだ」という説もあります。そうかもしれません。しかしそうではないかもしれない。特にヨハネによる福音書は、「光」と「闇」を対比させるのが特徴です。「光」は昼であり、「闇」は夜です。ヨハネは、この時のニコデモは闇の中にいたのだ、と言いたいのです。神の国のことを人々に教えながら、自分自身は神の国のことが分からない。ファリサイ派として、いっしょうけんめいモーセの律法を守り、厳しい掟をみな守ってきたのに、平安がないのです。神の国が確信できないのです。そして心は闇の中に置かれている。

     新しく生まれる

 イエスさまはおっしゃいました。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 それでニコデモは、「年をとった者が、どうしてもう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか?」と聞き返しました。
 誰でも一度は、「もう一度生まれ変わりたい」と思うのではないでしょうか。「人生最初からやり直したい」と思うのではないでしょうか。しかしそれはかなわぬ願いです。私たちは、人生を後戻りすることができません。時間に逆らうことができない存在です。どんなに願ってもです。
 しかしイエスさまは、「新しく生まれる」ということをおっしゃっいました。そして「だれでも、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。すなわちここでイエスさまがおっしゃっていることは、「水と霊とによって新しく生まれることができる。そして神の国に入ることができる。神さまのご支配の内に生きることができる」ということです。
 私たち、決して後戻りできない人生を歩んでいる人間が、母親の胎内にもう一度入ってやり直すということによってではなく、「水と霊」によって新しく生まれるということができるのだと。
 「風」は目に見ることはできないが、確かに吹いている。聖霊によって生まれるということも、目に見える形でもう一度母の胎から生まれるのではないが、確かに新しく生まれるのだと。

     水と霊

 水と霊。水と聖霊です。では「水」とは何を指しているのでしょうか?
 このヨハネによる福音書の最後のほう、イエスさまが十字架の上で死なれた場面に興味深い個所があります。19章34節です。‥‥イエスさまが十字架上で死なれた。そしてローマ兵が、本当に死んだかどうかをたしかめようとして、槍でイエスさまの脇腹を突き刺しました。すると血と水が流れ出た、と書かれています。しかもヨハネ福音書は丁寧にも、それに続けて、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である」と書かれているのです。
 なぜイエスさまの体から、血だけではなく、水が流れ出たのか。不思議です。しかもそれを目撃した人が、これは絶対に真実であるとわざわざ書いているのです。
 そしてヨハネによる福音書ではこの3章の後の4章で、「生ける水」という対話が出てきます。イエスさまの与える生ける水、というものが。‥‥3:14「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。
 「水」とは、イエスさまが与える命です。そして教会で行われる洗礼式は、それを表しています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける。その水は、罪を洗い清めるしるしの水であると共に、イエスさまが十字架で死んで下さったのと引き替えに、私たちに与えられる永遠の命に至る水」のしるしなのです。すなわち、水はイエスさまを信じて洗礼を受けることであり、「霊」はイエスさまを信じて告白することによって与えられる聖霊です。
 この水と霊によって、私たちは、新しく生まれることができるのです。今までの古い自分に死んで、キリスト共に歩む新しい自分が始まるのです。
 例え母親の胎内に返って生まれ変わったとしても、それは罪ある人間である限り、何度生まれ変わっても同じことです。しかし、新しくキリストの与えて下さる命をいただき、聖霊によってキリストと共に歩む。この時に、本当に新しく生まれる、ということが起きると約束して下さっているのです。

     M姉

 先週は、M姉を天に送りました。それに先立つ11日前、病院をお訪ねした時、M姉はご自分の覚悟をすでに決めておられました。そして、このようなことをおっしゃいました。=「自分の罪が本当に赦されるのか、不信仰な思いがあるんです」と。それはそれに対して、私は私の思いではなく、聖書が指し示している真実をそのままお伝えしました。‥‥「イエスさまは、私たちの罪も、不信仰も、すべて十字架の上に持っていって、それを釘付けにして下さいました。だから大丈夫ですよ」と。M姉は、うなずかれて、「わかりました。ありがとうございました」とおっしゃいました。
 M姉は、十字架のキリストがすべてを赦し、そしてすべてを新しくしてくださることを信じて召されていきました。キリストの証人となられました。
 私たちも、この私たちの人生を、全く清めて新しくしてくださるキリストを信じて、後に続く者でありたいと思います。

(2008年2月24日礼拝)


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