ヨハネによる福音書・連続講解説教 8

「知られたる我」

●聖書 ヨハネによる福音書1章43〜51

43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」






     知られたる我

 今日の説教題は「知られたる我」と付けました。なにやら古めかしい文語の題だと思われたことでしょう。実はこの言葉は、私に幼児洗礼を授けた武藤健という牧師の書いた本の題名からいただいたのです。
 私は、3歳の時に、当時わたしの両親が通っていた東京の本郷中央教会で幼児洗礼を受けました。その時の牧師が武藤健先生でした。わたしの両親、特に父は武藤先生を非常に慕っており、私が小学生の頃、武藤先生からその「知られたる我」という本をいただいて、たいへん喜んでいたことを、子供ながらも記憶しています。私は、本郷中央教会で幼児洗礼を受けてすぐに静岡県に転居しましたので、武藤先生の記憶はありません。しかしこの先生が、私が1歳で死にかけた時に祈って下さって命が助けられ、そして3歳の時には幼児洗礼を授けられたのです。
 武藤先生が書かれた「知られたる我」という本は、先生の説教集です。そしてその本の中に、本の題名と同じ題の説教が収められています。それは、コリント人の第一の手紙13:12の説教なのですがその冒頭に次のように記されています。
‥‥「神を知るということは、人生の一つの大きな理想でありましょう。聖書にも、「永遠の命とは、唯一の真の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」と記されております(ヨハネ17:3)。このように、「神を知る」ということは大切な事柄でありますが、しかし、この究極的な理想の前に、実は神が私たちを知っていて下さる、という事実がある。そして、私たちが神を知る、ということは、実は神に知られているというそのことを知ることに他ならないのではないか。」‥‥
 アーメンです。まさに私たちは神を知りたいと思う。もっと知りたいと思う。そして主が「求めなさい、そうすれば与えられる」とおっしゃったように、聖書は、私たちが神を求めて歩むことを奨励しているし、神を知っていくところに人生の目的があると言えます。  私たちは、神さまの御心を求めて祈ります。答えを求めて祈り願います。ある時は、本当に切なる願いを神さまに祈り続けていても、なかなか答えがないように思われる時があります。あるいは自分が願ったのとは違う結果になっていくこともあります。そうすると私たちは、「神さまは私の祈りを聞いていてくださるのだろうか?」とか、「神さまは、私のことをご存知なのだろうか?」などという疑問や不信が起こってきたりすることがあります。かく言う私も、祈る課題がたくさんあって、またいろいろな試練や問題が起こってきて、そのために祈っていると、なんだか神さまが祈りを聞いていてくださっているのかどうか、などと思うことがあります。‥‥それらのことは、私たちが神という方を知ろうとする動きであると言うことができるでしょう。
 しかし、聖書が私たちに語ることは、主なる神さまのほうが、あらかじめ私たちのことを知っておられるということです。
 有名なマタイによる福音書10章29〜30の御言葉を思い出します。‥‥「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」‥‥一羽の雀でさえ、神さまに知られている。ましてや、この私たちのことは、髪の毛一本に至るまで、神さまはご存知であるとイエスさまはおっしゃっています。
 また、きょうは教会学校の礼拝で、徴税人ザアカイのところが選ばれていましたが、ザアカイが初めてイエスさまと出会ったときのことを思い出してもよいでしょう。ルカによる福音書19章です。エリコの町に住んでいた徴税人ザアカイは、皆から嫌われていた人でした。そのザアカイが、町にやって来られたイエスさまを一目見ようと、いちじく桑の木に登りました。するとそこを通りかかったイエスさまが、木の上にいるザアカイを見上げておっしゃいました。‥‥「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)‥‥イエスさまはザアカイという人をザアカイに会う前から知っておられたのです。
 同様に、きょうの聖書の中で、ナタナエルという人がイエスさまの弟子となるのですが、イエスさまはそのナタナエルをあらかじめ知っておられたのです。

     それぞれの方法で弟子となる

 そのナタナエルの前に、きょうの聖書個所ではフィリポがイエスさまの弟子となります。フィリポは、イエスさまから直接声をかけられました。「わたしに従いなさい」。それでイエスさまの弟子となりました。また、この前の日の出来事、つまり前回学んだ35〜42節の出来事を読むと、そこでは3人の人がイエスさまの弟子となっている。すなわち、この二日間に合計5人の人がイエスさまの弟子となっています。この5人がどうやってイエスさまの弟子となったかということを注意して見ると、面白いことが分かります。つまり、それぞれ違うしかたでイエスさまの弟子となっているということです。
 まず、最初の二人は、もともとバプテスマのヨハネの弟子でした。アンデレと、もう一人無名の弟子(おそらくこの福音書を書いたヨハネと思われますが)、この二人は、師匠であるバプテスマのヨハネがイエスさまを指さして、「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いて、イエスさまに従っていきました。‥‥すなわち、自分の師匠の言葉に従って、イエスさまの弟子となったのです。
 次のシモン・ペトロは、先に弟子となった自分の兄弟のアンデレによってイエスさまのところに連れて行かれました。そうしてイエスさまの弟子となる。
 そして今日、まず登場するフィリポは、イエスさまのほうから「わたしに従いなさい」と声をかけられます。そして44節に、フィリポは「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」とあります。同じ町の出身であったと言うことを聖書がわざわざ書いているということは、フィリポは、先にイエスさまの弟子となったアンデレとペトロをよく知っていたということを言いたいのでしょう。‥‥すなわち、フィリポは、よく知っている知人のアンデレとペトロがイエスさまの弟子となった。そのイエスさまから声をかけられた。つまり、フィリポは、「仲間のアンデレとペトロが弟子となったぐらいの人だから、大丈夫だろう」と思ったのではないかと思うのです。
 そして次にナタナエルです。ナタナエルは、まずフィリポから声をかけられました。つまりナタナエルはフィリポの友達であったのでしょう。しかしナタナエルは、友達のフィリポが言うからと、ほいほいと簡単にイエスさまの弟子となったのではありません。「ナザレから何か良い者が出るだろうか」と反論しています。しかしなおもフィリポがあきらめないで、「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエスさまのところに引っ張るように連れて行って、イエスさまと出会わせ、そしてナタナエルがイエスさまと対話をすることを通して、イエスさまの弟子となるのです。
 このように、5人がそれぞれ違う導きでイエスさまの弟子となっています。‥‥自分の師事している先生の言うことをまともに信じてイエスさまに従っていった者、自分の兄弟に連れて行かれた者、直接イエスさまから声をかけられた者、イエスさまと対話をして納得して従った者‥‥みな違う出会い方をしています。しかし出会い方の違いは、その後の歩みにおいて、全く問題とならないのです。出会い方は違っても、従っていくきっかけは違っても、大切なことは、イエスさまの弟子となったというところにあるのです。
 これは私たちも同じです。私たちも、だれ一人として、同じ仕方、同じ道をたどって、イエスさまを信じるようになったという人はいません。‥‥親がキリスト者であったことがきっかけであったという人もいる。子供の頃、友達に連れられて教会学校に行ったのがきっかけだったという人もいる。キリスト教幼稚園や学校に入ったのがきっかけだったという人もいる。最初は知人に誘われてきたという人もいる。インターネットのホームページを見てと言う人もいる。まったくの飛び込みで教会の門をたたいたという人もいます。また、簡単に信じたという人もいれば、なかなか信じられなかったという人もいる。‥‥そのように、みな違う導かれ方をしている。しかし肝心なことは、教会への入り口がどうであったかということではありません。イエスさまのところに導かれた、ということが大切なところです。イエスさまの弟子となったという事については同じであり、そこが肝心なところであるということです。

     ナタナエル

 ナタナエルという人は、マタイやマルコ、ルカ福音書には弟子の名前として出てきません。それでナタナエルという人は、いったい誰であろうか?と言われます。しかし、ほぼ、「バルトロマイ」のことであると思われます。その理由は、マタイ、マルコ、ルカの各福音書に出てくる弟子のリストを見ると、みなフィリポと並んでバルトロマイが出てくること。そしてそもそも「バルトロマイ」という名前が、「トロマイの子」あるいは「トレミーの子」という意味だからです。つまりそれは、「トロマイの子」という愛称であって、実際の名前ではないと思われるからです。たとえば、シモン(ペトロ)も、42節で「ヨハネの子シモン」と呼ばれていますが、これもマタイ16:17では「バルヨナ・シモン」つまり、「ヨナ(ヨハネ)の子シモン」という意味だからです。
 さてそのナタナエルは、友達のフィリポから「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と聞かされます(45節)。つまりそれは、「メシア」=キリストが、ナザレのイエスという方だ、ということです。
 するとナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えている。これは「ナザレなどという田舎の町から良いものは出ない」とナザレを馬鹿にしているのではありません。そうではなく、「ナザレからキリストは出ない」と言っているのです。なぜなら旧約聖書には、ナザレからキリストが出るなどとは書いていないからです。出るとしたらベツレヘムであるはずだ、と思ったことでしょう。ナタナエルは、旧約聖書をよく知っていた、学んでいたのです。どうして私がそう考えるかというと、ナタナエルがフィリポから、「来て、見なさい」と言われてイエスさまのところに来たとき、イエスさまが言いました。「見なさい。真のイスラエル人だ。この人には偽りがない」。
 この言葉だけを読むと、イエスさまは何をおっしゃっているのかよく分かりません。「まことのイスラエル人」とはどういうことか?‥‥イスラエルに対する神さまのご計画を考えてみなくてはなりません。そうするとそこには、創世記12章において神さまがアブラハムに対して約束された祝福があります。ナタナエルは、その神さまの約束の実現を待ち望んでいたのだと思います。もっと言えば、神の救い、メシア=キリストの到来を心から待ち望んで旧約聖書を勉強していた。だから、フィリポが「ナザレの人」と言った時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えたのです。
 いずれにしても、イエスさまがナタナエルに出会って、最初に「見なさい。真のイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃった時、ナタナエルは驚いて、「どうして私を知っておられるのですか?」と言った。‥‥すなわち、ナタナエルには、イエスさまが自分の心を見抜かれていることが分かったのです。ですからこの時の驚きは、ナタナエル本人にしてみなければ分からないものであったと言えましょう。しかしそのナタナエルの神の救いを求める気持ちをイエスさまはご存知であったのです。  さらにイエスさまは、「わたしは、あなたがフィリポに話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とおっしゃいました。するとフィリポは今度は、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です!」と、感嘆の叫び声を上げました。‥‥イエスさま、あなたこそキリストですと言ったのです。
 自分の心の中の、真実に神を求めている思いを、イエスさまがご存知であった。そればかりではなく、自分がここに来る前に何をしていたかもご存知であった。‥‥何もかも知っておられた。知っておられて、だから「お前は弟子にしない」と言っているのではない。自分のことを何もかも知っておられる、その上で、この私という人間を受け入れてくださる方を、そこに見出したのです。
 人間、誰しも、自分という人間を理解してほしいと思っているのではないでしょうか。「自分を理解し、受け入れてほしい」と思うものです。しかしこの世の中で生きているうちに、自分を本当に理解して受け入れてくれるということが、難しいということが分かってきます。世の中のほとんどの人は、他人にあまり関心がない。自分のことで精一杯のわけです。ですから、皆、「自分のことを理解し、受け入れてほしい」と思っている人間同士ですから、結局本当に他人を理解するというのは難しいことになります。「所詮人間は孤独な生き物である」ということになる。
 しかしこのイエスさまという方が、ナタナエルが何を心の中で求め、飢え渇き、そして何をしてきたかをご存知であったように、私たちのこともご存知である。ご存知の上で、受け入れてくださるという。ここに救いがあるわけです。

     天国への階段

 しかしそこにとどまらないのが聖書です。イエスさまの言葉が続きます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
 創世記28章に出てくる、イサクの子、ヤコブの見た天国との階段の夢を思い出します。イエスさまの上に神の御使いたちが昇り降りしている。神の国とつながっているということです。
 主イエス・キリストという方が、この私たちをも知っておられる。私たちがどのように生まれ、どのように育ち、どのように歩んできたのかを。私たちが苦しんだことも、つらかったことも、孤独であったこともご存知である。そして私たちが何を求めてきたのか、何を考えているのかもご存知であるのです。その上で、私たちをも、理解し受け入れてくださる。そしてさらにその私たちを、神の国、神さまに出会うように導いてくださる。
 ナタナエルとイエスさまの出会いは、そのように教えてくれます。

(2008年1月20日礼拝)


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