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●聖書 ヨハネによる福音書1章35〜42
35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
イエスさまの第一声
「何を求めているのか」‥‥ヨハネによる福音書におけるイエスさまの第一声です。
書物の書き出しというものは大切だと思います。例えば、創世記の第1章1節は「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まっています。このことについて内村鑑三は、「まことに偉大なることばである。これにまさるのことばは、天上天下ほかにあろうとは思われない」と述べています。まさにその言葉は、天と地を創造された方が偉大な唯一なる神さまであり、そこに万物の根源があるということを表しています。そしてその最初の言葉はまた、全聖書の書こうとするテーマについて述べているように思います。すなわち、この天と地を造られたのが神さまであり、その神さまがすべての歴史の真の主人公であり、その方のなさったこと、なさろうとすることについて述べているのだ、と。
また、このヨハネによる福音書の書き出しは、「初めに言があった」という言葉で始まっていました。「言」というものは、自分以外の誰かと会話をするためにあるものです。自分以外の誰かとコミュニケーションを取るためにあるものです。すなわち、神さまは天と地、宇宙のすべてをお造りになった時、言があったということです。そういうことを最初にご一緒に学びました。神さまがこの宇宙と世界をお造りになった時、そして私たちをお造りになった時、意味もなくお造りなったのではない。ちゃんと意味と目的をもち、意志を持ってお造りになった。そしてそのことを、この私たちに伝えようとされて造られた。その神さまの私たちに対するメッセージ、それが「言」という言葉であり、イエスさまのことであると申し上げました。
ヨハネによる福音書の冒頭の言葉は、そのように福音書のテーマを見事に言い表していました。そして、きょうの聖書で、ヨハネ福音書は初めてイエスさまの言葉を記録しています。
それぞれの福音書において記録しているイエスさまの最初の言葉にも深い意味があるように思います。そのようなつもりでヨハネによる福音書における、イエスさまの第一声をもう一度考えてみましょう。
バプテスマのヨハネの弟子
主はおっしゃいました。「何を求めているのか」。これは、イエスさまに従った最初の二人の人の方を振り向いてイエスさまがおっしゃった言葉でした。
イエスさまの最初の弟子。それはまたバプテスマのヨハネの弟子だったと、使徒ヨハネは記しています。バプテスマのヨハネの弟子が、師匠のヨハネを離れてイエスさまの弟子となったのです。その理由は、バプテスマのヨハネが言った一言にありました。バプテスマのヨハネは、イエスさまが歩いておられるのを見て言いました。「見よ、神の小羊だ」。その一言を聞いて、バプテスマのヨハネと共にいた二人の弟子が、イエスさまに従ったのです。
私はこのところを読んで、本当に感動しました。そしてバプテスマのヨハネという人が、本当に神の僕(しもべ)であると思いました。本当に預言者であると思いました。‥‥この世の中ではどうでしょうか? 例えば、何かの習い事の先生が、自分の所のお弟子さんが辞めていって、他の先生のお弟子さんになったとしますと、「弟子を取られた」などということになりはしないでしょうか。
しかしヨハネは、むしろ自分の弟子たちが、イエスさまに従っていくことを望んでいるのです。自分を離れて、イエスさまに従っていくように、と。まだ世の中の人が誰もイエスさまのことを知らない時のことです。ヨハネは、イエスさまの所に鳩のように聖霊が降ってくるのを見たからです。天からの神さまの声を聞いていたからです。この方こそ聖霊によって洗礼を授ける方であると、この方こそ神の御子であると、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊である」と!‥‥だからみんな、わたしの所を去って、あの方の所に行きなさい、と!
バプテスマのヨハネ自身言いました。「私は水でバプテスマを授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」(1:28)と。またこの後のことになるのですが、この福音書の3章の終わりの所で、バプテスマのヨハネがイエスさまのことについてこのように言っています。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(3:30)。
「あの方は栄え、私は衰えねばならない」‥‥ヨハネはイエスさまが世の救い主であることを証しするために働いていたのです。
私たちも同じです。私たちは、好むと好まざるとに関わらず、この肉体は衰えていきます。そしてやがてこの地上の命を終えていきます。私たちは衰えていきます。地上の舞台を去っていきます。しかし「あの方」=イエスさまが栄えることに希望があると言えます。イエスさまの中に、わたしたちの命が包まれているからです。イエスさまが栄えること、その中にわたしたちの命もまた希望が与えられているのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを指して、「見よ、神の小羊」と言い、ヨハネの二人の弟子はその言葉を聞いて、イエスさまに従っていきました。すなわちこの二人は、師匠であるバプテスマのヨハネの言葉に最も忠実であったと言うことができます。この二人の弟子は、師匠であるバプテスマのヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに従って行ったのです。
「何を求めているのか」
イエスさまは振り返って二人に言いました。「何を求めているのか」‥‥私たちは何を求めているのでしょうか? 私たちは何を求めて生きているのでしょうか? 私たちが本当に求めているものはなんでしょうか?
私は最初に神さまに熱心に祈ったことで記憶しているのは、高校3年生の時の、大学受験に合格させてほしいという祈りでした。それは、目の前にある自分の願いをかなえてほしいという祈りでした。熱心に教会に通い、祈り続けました。そして神さまはそれをかなえてくださいました。しかしかなえていただくと、もう神さまは御用済みとばかり、間もなく教会へ行かなくなりました。
次に神さまに求めるということがあったのは、それから何年もしてからでした。命を落としかけた、それを助けられた。そして会社を辞めて、郷里に戻ってからのことでした。その時の私には、何か心の底で求めるものがありました。それは、次の就職先を求めていたには違いないのですけれど、それが第一の求めというのでもなかった。何と言えばよいのでしょうか。ある言い方をすれば、「どうやって生きていったらよいのか?」「生きるとは何か?」というような漠然とした問いでした。‥‥言い換えれば、「飢え渇き」というものがありました。魂が飢え渇いていたのです。その奥深くにはたしかに、「神さまのことを知りたい」という思いがありました。うまく言葉にはできない。しかし言ってみれば、そのようなものが心の中の深い所にありました。
ヨハネの二人の弟子は、イエスさまから「何を求めているのか」と聞かれて、その問いそのものには何も答えていません。代わりに「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」とイエスさまに尋ねています。
もちろん彼らには求めるものがあったことでしょう。しかしうまくそれを口に出して表現できない。しかしとにかくイエスさまから離れたくない。‥‥そのような気持ちが、「ラビ、どこにお泊まりなのですか」という言葉になったように思います。
その二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであったと書かれています。もう一人は誰であるのか書かれていません。もしかすると、この福音書を書いた使徒ヨハネであったかも知れません。いずれにしましても、二人ともガリラヤ湖で漁をしていた漁師でありました。それが今、ガリラヤ湖畔を離れて、荒れ野の中を流れるヨルダン川のほとりのバプテスマのヨハネの所にいる。漁師の仕事をそっちのけにして、こんな所に来ているのです。しかも、当時有名だった預言者ヨハネの弟子であったというのですから、この二人にはどんなに何かを求める思いがあったことでしょうか。心の強い、飢え渇きがあったのです。
イエスさまに「何を求めているのか?」と聞かれて、彼らはその問いに直接答えることができなかった。しかし何かを強烈に求めていたのです。いわばそれは、心の奥底で、強烈に神を求めていたのです。‥‥そのように言ってよいでしょう。
この二人は、何を求めていると答える代わりに言いました。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか?」‥‥自分でもイエスさまの問いにうまく答えることができない。どうしたらよいか分からない。自分でも自分をどうすることもできないのです。私たちも同じです。私たちは自分で自分をどうすることもできない。この二人も同じでした。しかしとにかく、イエスさま、あなたの所におらせてください。こんな私を受け入れてくださいますか?まるごと?‥‥そういう思いが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか?」という問いになったのだと思います。あなたのいるところに、私たちも置いてください、ということです。どうぞこんな我々を憐れんで受け入れてくださいと。
それに対してイエスさまは答えている。「来なさい。そうすれば分かる」と。‥‥受け入れてくださったんです。「午後4時ごろのことである」と、時間まで特定しています。‥‥「あの日、あの時、あの場所で」というような、生涯忘れることのない、イエスさまとの出会いの場面です。こうして、この二人にとって、イエスさまに従っていく新しい生涯が始まったのです。
神を求める
最初の弟子たちのイエスさまとの出会いについて、ヨハネによる福音書では、他の福音書とは別の記録を残しています。マタイなど、マタイとマルコの福音書では、ペトロやヨハネたちがガリラヤ湖畔で漁をしている時の出会いから始まっています。ルカの福音書では、その前にペトロの家でイエスさまがペトロの姑の病気を癒されたことから始まっています。そして、ヨハネはさらに前の出会いについて書き留めているのです。
ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で一番最後に書かれた福音書であると言われています。しかも、ヨハネ福音書は、他の福音書が存在することをすでに知っていたようです。そして使徒ヨハネは、他の福音書を補足するように書かれていることにやがてお気づきになることと思います。
使徒ヨハネは、他の福音書が記す、イエスさまと、ペトロとヨハネたち4人の漁師との出会いが、ガリラヤ湖付近での出会いよりも前にあったことを明らかにしているのです。そして私たちは、この人たちが神を求めていた人たちであることを知るのです。
神を求める。‥‥人が神を求めるようになる。このことは神さまご自身が待ち望んでおられることです。旧約聖書の詩編に次のような言葉があります。
「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(詩編14:2)
天の父なる神さまは、「神を求める人」を捜しておられるのです。
元旦礼拝で取り上げました聖書個所では、イエスさまがおっしゃっておられました。(ルカ11:9)「求めなさい。そうすれば与えられるだろう。」、(ルカ11:13)「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」。‥‥「聖霊」、神さまです!神さまは、神を求める者に対して、神ご自身を与えて下さると!
ヨハネ福音書では、ペトロよりも、ペトロの兄弟のアンデレが最初にイエスさまと出会ったことが記録されています。そしてアンデレがシモン(ペトロ)に告げる。「私たちはメシアに出会った」と。求めていたものが見つかったと。
岩にして下さるイエスさま
そしてシモンをイエスさまのところに連れて参ります。するとイエスさまは、シモンに語るのです。「あなたはヨハネの子シモンであるが、『ケファ』と呼ぶことにする。」
「ケファ」‥‥ヘブライ語で「岩」という意味です。そして「岩」という意味をギリシャ語にすると「ペトロ」という言葉になります。‥‥この時、シモンは「ケファ」=「ペトロ」という新しい名前をいただいたのです。またペトロが、イエスさまに従う前のことです。
「岩」‥‥それは、どっしりして動かないこと、状況に左右されずにしっかりとそこに立ち続けるものを表します。ペトロはそういう人だったのか。しかし聖書を読んでいくと、実はペトロはそんなしっかりした人物ではないことが分かります。
もう何度も何度も繰り返していることですが、イエスさまの一番弟子と呼ばれるペトロ。ペトロはやがて、最後の晩餐の後、イエスさまに言います。「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)。しかしご承知のように、その舌の根も乾かないうちに、ペトロはイエスさまのことを3度も「知らない」と言うのです。‥‥「岩」どころか、風に揺らぐ葦です。風に吹かれて飛んでいくもみ殻のごとき弱い人です。
私たちも同じです。‥‥ちょっとつらいことがあると、「神さまなんかいないのではないか?」と思い、試練が臨むと、「イエスさまは私を愛していない」と言うのです。
イエスさまは、ペトロという人物を見誤ったのでしょうか? マタイによる福音書の16章を見ると、やがてイエスさまは、ペトロを指して、「あなたはペトロ、私はこの岩の上に私の教会を建てる」とおっしゃいました(マタイ16:18)‥‥イエスさまが天に帰られた後のイエスさまの体である教会を、ペトロの上に建てるという。やはりイエスさまは人を見る目がなかったのでしょうか? やがてイエスさまを否認し、裏切るペトロを「岩」だとおっしゃっているのです。イエスさまはペトロを見誤ったのか?
そうではない。そうではないのです!‥‥シモンが岩のようにしっかりした、何があっても揺らがない人物だから「ペトロ」=岩と命名されたのではありません!逆です。シモンは、他の人にも増して弱く、揺らぎやすい人だった。しかしその全く弱い一人の人間であったシモンが、今、イエスさまから「ケファ」=「ペトロ」という名前をいただく。‥‥それは、イエスさまがこの弱い弱いシモンを「岩」にするという宣言なのです!
そして、このシモンに代表される弱い一人の人間が、どのように変えられていくのか、というのが、この福音書の、もう一つのテーマなのです!
私たちも同じです。この私という一人の弱い人間が、イエスさまによって天の住人として変えられていく。その物語が、神を信じるということの私たちの物語です。
シモンの上に教会が建つはずがないように思われるように、私たちの上に教会が建つはずがないように思われる。この弱い、もろい私たちの上に。‥‥しかしイエスさまは、シモンを「岩」と命名されたように、私たちの上に教会を建てると宣言される。私たちと共にいて、私たちを導いてくださるのです。それがイエスさまに従っていく物語です。
(2008年1月13日礼拝)
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