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●聖書 ヨハネによる福音書1章29〜34
29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
見よ!
洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。
私たちは、何を見て歩んでいるでしょうか。
山登りをする人は、目の前の足もとを見て、足をかけても大丈夫な場所かどうかをしっかりと見て確認して、一歩一歩登っていきます。その時、確かに目の前の足もとを見ているのですが、心の中では頂上を見て登っています。
今、受験シーズンを迎えようとしていますが、受験生は毎日机に向かって問題集を解いたり、参考書を読んだりしています。確かに顔についている二つの目は、そのような問題集や参考書を見ているのですが、心の中では目前に迫ってきている入学試験を見ているのです。目指しているのです。そのために、「今」、勉強をしているのです。
同じように、洗礼者ヨハネが「見よ」とイエスさまを指して言ったとき、それは単にその時、地上を歩いているイエスさまを指さして「見てご覧、あれがイエスさまだよ」と言い、見た人が「ああそうですか」と答えるような意味で「見よ」と言ったのではありません。洗礼者ヨハネが、「見よ」と言った時、それは山登りをする人が、心の中ですでに山頂を見ようとしているように、そして受験生が入学試験を目標にしているように、まさにイエスさまを見て歩め、イエスさまを見ながら歩め、イエスさまに向かって歩めと、私たちの進むべき道を示しているのです。
すなわち、私たち人間がイエスさまを見つつ歩むものであることを明らかにしているのです。
世の罪を取り除く神の小羊
続けてヨハネは言いました。「世の罪を取り除く神の小羊」と。「世の罪」とは、この世の人間の罪ということです。つまり私たちの罪ということです。それをそのイエスさまが「取り除く」という。
この「取り除く」というギリシャ語(ハイロー)には、「取り除く」の他に、「かつぐ」とか「負う」という意味があります。つまりまとめて言えば、このイエスさまが、この世の私たち人間の罪を負って下さり、私たちから取り除いて下さる方だ、ということです。
そして「小羊」です。なぜヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのか?
このことは旧約聖書を読まないと分かりません。旧約聖書では、つまり当時のユダヤ人も、神さまを礼拝する時は、エルサレムの神殿に動物のいけにえをささげて神さまを礼拝しました。その理由はおもに、そのいけにえにする動物に、自分たちの罪を代わりに負ってもらうということです。
特に「小羊」と言う場合は、出エジプトの時の過越の時の小羊の血を連想させます。また、私たちの信仰の父であるアブラハムが、我が子イサクをささげるように、神さまから命じられたときのことを思い出します。創世記22章です。
‥‥ある日アブラハムは、神さまから、自分の愛する独り子イサクをささげるように命じられました。イサクはアブラハム夫妻が年を取ってからようやく与えられた大切な子供です。それを祭壇で焼いて、いけにえとして献げよと言う。ずいぶんむごいことを神さまもおっしゃるものです。しかしアブラハムは、イサクを連れて、神さまの示す山に向かいました。山を登っていく途中に、イサクがお父さんであるアブラハムに尋ねました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか?」
この問いを聞いたとき、父親であるアブラハムは胸が張り裂けそうに痛んだことでしょう。アブラハムは答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
そして山を登り、神が命じられた場所に着きましたが、何事も起こらない。そこでアブラハムは、石で祭壇を造り、薪を並べ、いよいよ息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に乗せました。そして刀を持ってイサクを斬り殺そうとした時に、天から神の御使いがアブラハムを呼びました。「その子に手を下すな」と。そして、その時、近くの木の茂みに、一匹の小羊を用意してくださったのです。そしてアブラハムは、イサクをひもとき、代わりに神の用意してくださった小羊を祭壇にささげました。‥‥イサクの代わりに、小羊がいけにえとして献げられました。
イエスさまはそのようであるということです。本当は、私たちが罪のために死ななければならない。しかしその私たちに代わって、神の御子イエスさまがいけにえとなって下さるという。神自らが備えてくださった小羊。それが十字架のイエスさまです。
洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。すなわちそれは、「この方が、イエスさまが、私たちの罪を取り除いて負って下さる。この方によって私たちは救われる。この方を見よ、この方を見て歩め!」‥‥と語っているのです。
イエスの洗礼
父なる神と共にこの世を造られた「言」なる方イエスさま。そのイエスさまが、人となられて、あのベツレヘムの馬小屋の中にお生まれになったということを、クリスマスの時に学びました。それは神の御子が、わたしたちと全く同じ人間となられたということでした。この罪の渦巻く世の中で生き、生きるために、食べるために働き、苦労をし、そしてやがて死んでいく私たち人間と全く同じになられたということでした。
そのイエスさまが、ヨハネから洗礼を受けられた。洗礼というのは、罪を洗い清めるしるしです。だからそれは、罪汚れがあるからそれを取り除くために洗礼を受けるのであって、罪や汚れのない方は、洗礼を受ける必要がないはずです。罪や汚れが自分の体にくっついたままでは、清い神さまの前に出て、祈り願いをすることはできない。
だとしたら、神さまご自身は、洗礼を受ける必要はないはずです。イエスさまが三位一体の神であり、神の御子であるならば、洗礼を受ける必要はない。しかしにもかかわらず、イエスさまは洗礼を受けられました。
それはまさに、私たち罪人である人間と全く同じになられたということです。父なる神と共に天にとどまっていて良い方が、この世に来られた。しかも人となって。貧しい庶民のマリアとヨセフを両親として、人間としてお生まれになった。居場所が無くて、ベツレヘムの家畜小屋の中にお生まれになった。いと高き神の御子であり、世界の創造者なる方がです。そうする必要がなかったにもかかわらず。理由はただ一つ、私たちを愛しておられたからです。滅びるのを見るに忍びなかったのです。
そして、今、洗礼を受ける必要もないのに、洗礼を受けられた。
私たちはなぜ洗礼を受ける必要があるのでしょうか?‥‥いろいろな理由を挙げることができます。しかし、突き詰めて言えば、神の御子イエスさまが洗礼を受けられたからだと言うことができます。
洗礼を受けられる必要のない方が、へりくだって洗礼を受けられたのです。そして人々の罪を実際に負うために、十字架への道を歩み出されたのです。私たちもへりくだって洗礼を受けたのです。
聖霊による洗礼
イエスさまの十字架の苦しみ。それは、罪人である私たちを受け入れ、その罪を負われる苦しみです。私たちの最も深いところで、私たちとつながってくださっている苦しみです。
そして、ただ苦しみを共有してくださるというのではない。それだけなら、私たちの気持ちを分かってくださると言うだけで、有り難いことではありますが、解決にはなりません。私たちの苦しみが、私たちの不幸が、「罪」に原因があるとしたら、その罪を共にしてくださるだけではなく、それを解決してくださる。取り去ってくださる。
それが「聖霊によって洗礼を授ける」ということです。
ヨハネの施す洗礼は、罪を洗い清めるしるしに過ぎません。それは人間の外部から体にくっついた汚れを洗い流すことはできても、人間の心の中に住みついている罪を洗い流すことはできません。自分でもどうすることもできないのです。
しかし聖霊なる神さまだけは、そこに手を届かせることのできる方です。このイエスさまが授ける洗礼は、私たちの中の罪を清めてくださる。そして神さまのもとに連れて行ってくださる。
ヨハネはイエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そしてそのイエスさまを証しするために、自分は洗礼を授けていると言いました。
「見よ」!
この2008年。私たちは何を見て歩むべきでしょうか。何が待ち受けているかも分かりません。多くの課題や問題が待ち受けているかも知れません。あるいは、今なんの希望も持てないという方がおられるかも知れません。
しかしヨハネは、こちらに来られるイエスさまを指して、「見よ」と言いました。わたしたちと全く同じ人間となられ、罪人の一人となられたイエスさまは、私たちの毎日の生活の中に来てくださいます。仕事の中にもおられます。歩いている時もおられます。家事労働をしている時にもおられます。眠っている時もおられます。このイエスさまを見て、見出して歩むように聖書は私たちを招いています。
イエスを見つめて歩む。つらいことがあっても、悲しいことがあってもイエスを見つめて歩む。そして、暗闇の世界に光が差し込み、神の恵みを体験する。そのことを証しする年であるように願います。
(2008年1月6日礼拝)
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