ヨハネによる福音書・連続講解説教 5

「荒れ野の声」

●聖書 ヨハネによる福音書1章19〜28

19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。




     あなたはどなた?

 「あなたはどなたですか?」‥‥洗礼者ヨハネに対して、ユダヤ人の宗教指導者が問うています。
 もちろん、この時質問した人たちは、相手が「洗礼者ヨハネ」(バプテスマのヨハネ)であるということは知っているのです。名前は知っているのです。しかし「あなたはどなたですか?」と問いただしている。すなわちこれは、言葉は丁寧ですけれども「あんたは何者だ?」と問うているのです。
 それはまた、この後イエスさまが世に現れ、エルサレムの神殿の庭で商売をしていた商人を追い出し、また境内で人々に神の国のことを教えていた時に、祭司長や民の長老たちがイエスさまに尋ねた言葉と同じ意味を持っています。彼ら宗教指導者たちはイエスさまに対してこのように言いました‥‥「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。」
 バプテスマのヨハネは、エルサレムから東の方、荒れ野の中を流れているヨルダン川にて、主なる神の前に悔い改めようとする人々に洗礼を授けていました。この「洗礼」は、もともとユダヤ人以外の人、つまり異邦人が、真の神を信じるようになり、ユダヤ教へ改宗する時に受けるものでした。川の水を頭から注ぎました。それは、罪を洗い清めるしるしでした。
 ですから、ユダヤ人は洗礼を受けませんでした。ユダヤ人は旧約聖書に記されているように、アブラハムの子孫であり、神の民であるから洗礼を受ける必要がないと思っていたのです。しかしバプテスマのヨハネは、ユダヤ人にも罪を悔い改めることを促し、洗礼を授けました。ユダヤ人も何も関係ない、人間はみな、神さまの前に悔い改めなければならないと説いたのです。そして求める人々に洗礼を授けていた。
 そういうことに対して、祭司やレビ人やファリサイ派というような宗教指導者たちが、不快感を抱いたのです。‥‥「宗教の権威は我々だ。その我々を差し置いて勝手なことをして。あのヨハネというヤツはけしからん!」と。ですから、「あなたはどなたですか?」という問いは、謙遜になって質問しているのではなく、上から詰問するかのように、「お前は何者だ?」「何の権威で洗礼など授けているのだ?」‥‥という問いなのです。

     荒れ野で叫ぶ声

 そのような問いに対して、バプテスマのヨハネは「私はメシアではない」と答えました。旧約聖書に予言されていたメシア(キリスト)ではないと答えました。‥‥終わりの時に神が送ったメシアが来て、自分たちを救ってくれると信じられていたメシアではないと。メシアならば人々に洗礼を授ける権威がある。それは、祭司やレビ人やファリサイ派よりも上の存在だからです。しかしメシアではないという。
 「では何ですか。あなたはエリヤですか?」と次に彼らは問いました。‥‥エリヤは旧約聖書の列王記に登場する預言者で、有名な預言者でした。そしてエリヤもまた、終わりの時代に、神が再び遣わすと約束してくださっている預言者でした。旧約聖書の一番最後のマラキ書の一番最後の所、新約聖書の直前に、そのことが預言されています。‥‥しかしそのエリヤでもないという。
 すると次に彼らは、「あなたは、あの預言者なのですか?」と問いました。‥‥「あの預言者」というのは、これも旧約聖書に出てきます。申命記18:18で神がモーセに語られたことで、「モーセのような預言者」という意味です。そしてこれが後に、やはり終わりの時代に神さまが送られるモーセに匹敵する預言者という意味になりました。‥‥しかしヨハネはそれでもないという。
 すると彼らはしびれを切らしたように、「じゃあ、何で洗礼を授けているのか?なんの資格で授けているのか?我々に断りもなしに」と言わんばかりにヨハネを問いつめるのです。「あなたの資格は何だ?!」というのです。
 するとバプテスマのヨハネは、答えました。「自分でも分からん」と言ったのではないのです。または、自分で勝手に理由をつけたのでもありません。ちゃんと聖書の言葉を引用して答えたのです。ヨハネは旧約聖書の預言者イザヤ書の言葉を引用してい答えました。‥‥「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(イザヤ書40:3)‥‥聖書の言葉、神の言葉によって答えたのです。ヨハネは、自分がそのような役割をするものであるとの神さまの言葉をいただいていたのです。
 そのように聖書の言葉の中に答えがあります。

     私は誰? 〜「自分捜し」の答え〜

 「あなたはどなたですか?」‥‥しかしこの問いは、私たちににとっても大きな問題です。私たちが「あなたはどなたですか?」と問われたとしたら、何と答えるでしょうか。‥‥「私は誰なのか?」「自分は、一体何者なのか?」。こういう疑問を持って、多くの人が「自分捜し」をしているのが現代です。
 わたしが初めて名刺という物を持ったのは、大学を卒業してある製薬会社の会社員になった時でした。新入社員の研修が終わって、東京の営業所に配属された時に、上司から名刺や営業マンのブレザーや、カバンを渡されました。その名刺には「K製薬株式会社・東部製品営業部・販売一課」と書かれていました。‥‥その名刺は、自分が何者であるかということを表していました。K製薬という会社の組織の一員であるということでした。
 今わたしが持っている名刺には、「日本キリスト教団富山二番町教会・牧師」と印刷されています。
 以前、金沢南部教会の牧師を長く務められた大隅先生が隠退した後に、先生があらためて名刺を下さいました。するとそこには、何の肩書きも書かれていませんでした。ただ単に「大隅啓三」という名前と住所だけが印刷されていました。私はその時、何かちょっとした感動を覚えました。それまで名刺という物は、必ず何かの肩書きが書かれていました。それは言ってみれば、その人が「何者であるか」ということを表しているものです。それは社会的な立場や、仕事上の地位を表しているものです。言い換えれば、人間社会の組織の一員としての位置を表しているのです。
 しかし隠退してそのような位置が無くなった時に、肩書きのない名前だけの先生の名刺をいただいて、何かそこに、この世の地位も立場も今は無いけれど、「神さまによって生かされている私」というようなものを感じたのです。

     今年を振り返りつつ 〜聖書に根拠がある〜

 今日は今年最後の礼拝です。このキリスト降誕2007年という年を振り返ると、試練の多い年だったなあ、と思わざるを得ません。
@ 3月に起こった「能登半島地震」は最たる物でした。能登の過疎の地に建つ小さな教会が被災し、その再建のための中部教区の委員長に任命されました。もちろん、主の御用として引き受けたのですが、そのための仕事は様々な問題が山積し、何度も途方に暮れる思いがしたものでした。今も全国献金を続行しており、1億5千万円を集め無ければならないので、全国の皆様に伏してお願いしている途中です。
A また、今年は5人の兄弟姉妹を天に送りました。
 2月には、N姉が天に召されました。‥‥N姉妹は、体の弱い中でよく頑張って生きられました。昨年12月に、入院中だった姉妹を訪問し、聖書を読んでお祈りをする時、それまでベッドに寝ておられたのが、ベッドの上に起きあがられて正座をされたのです。私が「どうぞ楽にしてください」と言うと、彼女は「いえ、お祈りの時は正座です」と言われました。そこに彼女の信仰の姿勢がすべてあらわれているように思いました。
 4月にはD兄が天に召されました。‥‥D兄は、6年前にガンが見つかってから、闘病生活に入られました。それからのD兄は、前にも増して真剣に聖書を読まれ、しばしば私に質問をなさいました。その真剣なご質問に、こちらも襟を正された思いがしたものです。
 8月にはO姉を天に送りました。‥‥O姉は、いろいろなご奉仕を黙々となさっていた姿が印象的です。この新会堂の完成を本当に喜んでおられました。決してキリスト教に理解があるとは言えない地域の中で、何を言われてもひたすらに礼拝を守られました。
 9月にはK姉を天に送りました。‥‥あまりにも若い死でした。多くの心残りがあります。しかし本当に私にとっては、伝道の種を蒔くことの大切さを教えてくれました。
 10月にはY兄を天に送りました。‥‥わたしの赴任前に、Y兄がT兄と共に輪島に招聘状を持ってこられたことは昨日のことのようです。幹事会では、本当によく奉仕をしてくださいました。
 前任地の小さな輪島教会でもお二人が天に召されました。昨日も、先週亡くなった方の前夜式があり、お手伝いに行ってきたところです。その方は、以前礼拝でもお話ししした人で、教会員みんなから「おばあちゃん」と呼ばれていました。おばあちゃんは市街地から遠い集落に住んでおられ、私が教会学校が始まる前に車で迎えに行き、そして日曜日のすべての集会が終わってから、また車で送りに行きました。ですから、日曜日は一番長く教会にいる方でした。その間、礼拝以外の時は、いつも礼拝堂の座席に座って聖書を読んでいるのです。いつ見ても聖書を読んでいる。
 ある人がお婆ちゃんに聞きました。「ばあちゃん、なんでいつも聖書を読んどる?」すると彼女は答えました。「だって、読んでもすぐ忘れてしまうのよ。だから聖書から目を離せないのよ」‥‥。わたしはその言葉を聞いたとき、本当に感動しました。「歳をとって、聖書を読んでもすぐ忘れてしまう。だから読まない」と言うこともできるでしょう。しかし彼女は、「すぐ忘れてしまうから、いつも聖書の御言葉から目を離せない」と言ったのです。聖書の言葉を神の言葉と信じ、生きている証しでした。
 本当に多くの方が亡くなられました。その方々について、この世の人はどのように言うのでしょうか。‥‥「天国に行ったのではないか」と一般の方もよく言われます。しかし「ではどうして天国に行ったということが分かるのですか?」と問えば、「さあ‥‥そんなことは分からない」と答えることでしょう。あるいは「千の風」になったのでしょうか。しかしそれもまた、思いつきのような言い方です。
 しかし、幸いなことに、私たちの兄弟姉妹について言えば、それは「天国に行った」とはっきり答えることができるのです。なぜなら、それは聖書に記されていることであり、本人たちはそれを信じていたのです。
 葬儀の時に読まれる聖書の個所、ヨハネの黙示録の7章の中から、少し引用してお読みします。‥‥「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その人を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える、玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(ヨハネの黙示録7:14〜17)。
 「小羊の血」‥‥イエスさまの十字架の血です。メシアであるイエスさまが、私たちの罪を本当に清め、救って、神の国の住人としてくださるためにおかかりになった十字架。その十字架で流された血潮によって、この洗っても洗っても白くならない罪の私を、清めて白くしてくださった。それで神の国、天国で、神とイエスさまの前で共に讃美の声をあげて礼拝している。
 私たちは、そのことによって、本当の慰めを受けるのです。亡くなったそれらの兄弟姉妹たちは、地上を去った今、何者であるのか。‥‥天国の住人となっているのです。そのことは、ただ神の言葉、聖書を通して分かるのです。

     主の道をまっすぐにせよ

 同じように、神の言葉によって私たちは、自分が何者であるかが分かるのです。
 「あなたは何者ですか?」‥‥私たちは答えることができます。「キリスト者です」と。それはイエスさまが、この私のためにも十字架にかかって命をささげてくださったからです。私たちは、神がわたしたちの真の父であり、主イエスの言葉によって生きればよいことを知っているのです。これはこの地上の何物にも代え難い、感謝です。私たちは、イエスさまがおられるゆえに、生きる資格が与えられているのです。
 バプテスマのヨハネは、「私は、荒れ野で叫ぶ声」だと言いました。荒れ野‥‥それは荒涼として、殺伐として、木も草も生えていない、飲み水もない、飢え渇く場所です。しかしそういう絶望的な場所で、そこで神に会うことができるのです。
 私たちも荒れ野のような世の中を生きています。殺伐として飢え渇いています。問題が山積しています。悩みの中に置かれます。しかしその荒れ野のような中で、神の言葉、聖書の言葉が迫ってくるのです。
 「主の道をまっすぐにせよ」‥‥主は来られます。私たちの所に。私たちは心を神の方に向け、主が来られる道をまっすぐにするのです。
 26節でヨハネは言いました。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。‥‥人々はメシアを捜していました。どこにいるのかと捜していました。しかしヨハネは言いました。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方、本当のメシアが来ておられる」と。もう来ておられるのです。どこか遠いところに出かけていって捜す必要はないのです。今私たちの中に来ておられるのです。私たちはそのキリストを迎え入れさえすればよいのです。
 このキャンドル。しまい忘れたのではありません。クリスマスは1月6日までです。主が来られたことを証ししているのです。私たちの所に。
 兄弟姉妹たちのこの一年の労苦を主が癒してくださいますように。そして来る年、更に深く主に出会うことができますように祝福いたします。

(2007年12月30日)


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