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●聖書 ヨハネによる福音書1章14〜18
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
言が肉となって
クリスマスおめでとうございます。
今日のクリスマス礼拝にも、ヨハネによる福音書を読んでいただきました。ヨハネによる福音書には、星に導かれて東の国からやって来て、お生まれになったイエスさまを拝みに来た博士たちの物語は書かれていません。また、野宿をしていた羊飼いたちの所に、御子の誕生を告げる天使たちが現れ、その羊飼いたちが家畜小屋の飼い葉桶に寝かせてあるイエスさまのもとに訪れた、あの印象的な場面も書かれていません。
その代わりにヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)と記しています。「言」が「肉」となった‥‥。
先ほど讃美歌100番を歌っていただきました。「生けるものすべて」という讃美歌です。この讃美歌の左上、「100」と数字で書いてあるすぐ下に細かい字で書いてあるところを見ると、ギリシャ語の文字が書かれています。もともとギリシャ語の歌詞であるということです。私たちの讃美歌には、もともとギリシャ語の讃美歌が9つ載っているそうです。そしてそのいずれもが、東方正教会(ギリシャ正教とかロシア正教と呼ばれる)というたいへん古い歴史を持つ教会の聖歌集から採用されたものだそうです。そしてこの讃美歌100番は、聖餐式の時に歌われる「天使の歌」と呼ばれるもので、作られたのは5世紀頃だそうです。ちなみに曲の方は17世紀に作られたものだそうです。5世紀というと、今から1500年以上前のことです。日本では古墳時代です。そんなに古い讃美歌です。そう思うとなんとなく古代の香りがしてきませんか。
その1節を見ますと、文語ですが、口語にすると次のようになるのでしょう。「生きている者は皆、恐れおののいて黙りなさい。この世の思いを捨てて、ひたすらに敬って従いなさい。神の御子が、この聖なる日に降って(くだって)来られたからです」。
「降りたもう」‥‥どこから降ってきたのでしょうか? 天から降ってこられたのです。天とは、神さまの所です。
2節を見ると、「君の君なれど」、すなわち「王の王であるにもかかわらず」ということです。「王の王であるにもかかわらず、人間であるマリアから人の子としてお生まれになった。馬のエサを入れる飼い葉桶の中に、産声を上げて、この私たち罪人のために、ご自分の体を与えて下さった」。
このように讃美歌100番を見ていきますと、まさに今日のヨハネによる福音書が語ろうとしていることを、ほぼ語ってしまっているのです。
「言は肉となって」‥‥それは「言」といわれるイエスさまが、「肉体」となって、わたしたちの間に「宿られた」=「住まわれた」ということです。その「言」なるイエスさまは、君の君、王の王、神の御子であった。では「神の御子」とはどういうことであるかというと、今日のヨハネによる福音書の18節を見ると、「父のふところにいる独り子である神」と書かれています。すなわち、「神の御子」とは「独り子である神」、すなわち神さまなんだというのです。
宇宙が造られる前から唯一の父なる神と共におられ、その父なる神と共に宇宙と万物をお造りになった。その「言」なる神の独り子、独り子なる神が、「肉となって私たちの間に住まわれた」ということです。
わたしたちと同じになられた
「肉となって」とは、この肉体を持つ私たちと同じになってということです。
私たちは肉体があるから生きているということができます。肉の体が母親の胎内で形づくられた時に私たちも生き始めたのです。今私たちは肉体があるから生きていると言える。しかしそれは同時に、この肉体を失えば死ぬということです。そしてこの肉体は必ず朽ちる。必ず死ぬのです。また私たちは肉体があるからこそ、この肉体を維持するために生きようとします。食べなければならない。それで食べるために苦労して働かなくてはならない。他人のことなんか構っていられないというところが出てくるわけです。それで時には人と争い、憎しみ合うこととなる。すべては肉体を持つこの自分が生きるためというところから出てくるわけです。
神の言葉であり、独り子なる神であるイエスさまが、「肉となった」ということは、そういう私たち人間と同じになられたということです。
神であられた方が、苦労多くして死んでいくこの私たち人間と同じになられた。それ自体が奇跡です。それが「言が肉となって」ということです。そしてそれが、クリスマスの出来事です。ヨハネ福音書には、ベツレヘムの幼子イエスさまの所にやって来た3博士の訪問の出来事も、羊飼いの訪問の出来事も書かれていませんが、イエスさまがこの世にお生まれになったという、その出来事の意味をそのように述べているのです。
私たち人間が苦労の多い一生を終えて、ついには死ぬことになるというのは、もとを正せば創世記が語っているように、私たち人間が神を信じなくなった、造り主なる神さまから離れていったことに始まっている。神さまは、人間を「極めて良い」ものとしてお造りになったのに、人間の方が神さまにそむいて、罪を犯した、悪い方へ行ってしまったのです。ですから、そんな人間など放っておけばいいはずです。ところが、神さまは放っておかれなかった。「言が肉となって、私たちの間に宿られた」のです。独り子なる神であるイエスさまが、神を信じないで勝手に神のもとを離れていった人間を放っておかないで、もう一度神さまの所に招くために肉体を伴った、私たち人間と同じになって下さったというのです。
なぜでしょうか?なぜそこまでして、人間を救おうとされるのか?‥‥それが「恵み」ということです。救われるべき何の権利も資格もない。にもかかわらず、神の御子が、神のもとを離れていった人間を追い求めるようにして、私たちと同じになってまで捕まえに来てくださった。それが「恵み」ということです。
人となられたことが栄光
「私たちはその栄光を見た」という。この福音書を書いた人は、使徒ヨハネであると思われますが、ヨハネたちは見たのです。「言が肉となって、つまり人となって私たちの間に宿られた」のを。
15節にも「ヨハネ」が出てきますが、ややこしいのですが、こちらのヨハネは、このヨハネによる福音書を書いたヨハネとは違うヨハネで、「洗礼者ヨハネ」という人です。ルカによる福音書で言えば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアと妻のエリサベトの間に生まれたヨハネです。イエスさまがこの世で宣教活動を始められるための準備をした人です。
この福音書を記した使徒ヨハネは、「その栄光を見た」という。ヨハネをはじめ、使徒たち、イエスさまと共にこの地上を歩んだ人たちは、見たのです。イエスさまと共に歩み、イエスさまのお話を間近で聞き、その御業を見たのです。天地創造の前から父なる神と共に存在し、万物がこの方によって成ったという、神の御子が、私たち人間と全く同じ人となって、この地上を歩まれたのを見たのです。‥‥もちろん、イエスさまがそのように神の御子であることが分かったのは、十字架と復活を経て後のことになるのですが。
もう3年前になります。皆様の助けによって、私たちが聖地旅行をさせていただいたのは。イスラエルに滞在したのは、わずか3日間だけでした。しかし、たったそれだけの時間でも、今述べたことを知るためには十分でした。
イエスさまがお生まれになった場所に建っているベツレヘムの聖誕教会は、特に印象的でした。エルサレムとベツレヘムの間には、今は国境があります。イスラエルとパレスチナ自治政府の間の国境です。パレスチナ紛争のために、私たちが聖地を訪れた時は、観光客もまばらでした。そして、ガイドさんの手配によってイスラエル軍の検問所を超えて、パレスチナ自治政府側のベツレヘムに行き、さらにイエスさまがお生まれになった場所に建っているという聖誕教会に到着した時には、そこには私たちの他に誰も観光客はいませんでした。本当なら、観光客が押し寄せて、教会の中に入るためには1時間以上も待つことがあるという教会堂の中はガランとしていました。シスターや司祭がポツンといて教会を守っているだけでした。そして、地下に降りていって、イエスさまが生まれた場所を見ました。大変感動しました。
もちろん、本当にそこでイエスさまが生まれたかどうかは、知りません。多分そこだろう、という場所であるにすぎません。そのようなことを言えば、イエスさまが十字架にかかったゴルゴタの丘に、聖墳墓教会が建っていますが、そこも本当の場所かどうかは分かりません。ガリラヤの、「ペトロの召命教会」にしても、本当にそこでペトロがイエスさまに従った場所かどうかは分かりません。そういうことを言い出せば、クリスマスにしても、本当は12月25日ではないかも知れない。聖書には、12月25日とは書いていないのですから。
しかし、にもかかわらず、私は感動を押させることができませんでした。なぜなら、そこが本当にイエスさまのお生まれになった場所かどうかは定かではないけれども、ただ、イエスさまがそのあたりにお生まれになり、本当にこの地球上にお生まれになり、この地上を歩まれたのだ、ということが身をもって分かったからです。イエス様が確かに、そのあたりの、この私たちが生きているのと同じ世界の上を、歩まれたからです。
「私たちはその栄光を見た」と、使徒ヨハネは言う。使徒たちも、その肉となってこの世に住まわれたイエスさまに従っていき、共に歩み、そして十字架と復活を目撃することとなったのです。それは確かだと、使徒ヨハネは言っているのです。
御子の招きに応える
「言は肉となって、私たちの間に宿られた」‥‥それがヨハネ福音書の語るクリスマスです。このようにヨハネが書く時、クリスマスというものが、単なる「偉大な人であるイエスさまの誕生日」をお祝いする、ということではなくなるのです。
偉大な人と言えば、この世にはいくらでも他にいました。ソクラテスやプラトン。孔子や孟子。シュバイツァーやナイチンゲールやマザー・テレサ。‥‥しかし、いくら偉大な人の誕生日と言っても、イエスさまの誕生というものは、そのようなものではありません。3節で「万物は言によって成った」と言われるその言である方が、「肉となって私たちの間に宿られた」という時、それは、永遠の神と私たちがつなげられるということなのです。
先週のニュースに、アメリカのネブラスカ州で1914年に出されたクリスマスカードが、カンザス州オバーリンという町の人のところに93年ぶりに届き、関係者を驚かせた、というニュースがありました。しかし93年前にそのクリスマスカードを出した人は、もう亡くなっていることでしょう。私たちは、今から2000年近く前にヨハネが書いた福音書を受け取っています。しかしこの福音書という手紙の指し示す方、イエスさまは、宇宙の始まる前からおられ、2000年前に地上の私たちの所に、私たち同じになって来られ、今また天の父なる神と共におられ、そして永遠におられからであるということです。ですから、私たちは今、福音書という生きた手紙をいただいているのです。
肉となってこられた方。このイエスさまの招きに、私たちが応えることによって、新しい世界が開けていくのです。16節に「私たちは、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。わたしたちの主イエスは、「満ちあふれる豊かさ」を持っておられる。そして私たちは、「恵みの上に、更に恵みを」受けるのです。あふれるばかりの恵みです。
(2007年12月23日・降誕祭)
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