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●聖書 ヨハネによる福音書1章10〜13
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
民はイエスさまを認めなかった
10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。3節に「万物は言によって成った」と書かれていましたが、ここでも「世は言によって成った」と、世界がキリストによって存在するようになったということが言われています。
最初の時も申し上げたように、この宇宙とその中にある全てのものが「言」によって造られたという時、それは天地の造り主である唯一なる神さまが「言」すなわちメッセージを持ってお造りになったということです。この宇宙とその中に生きている私たちが、偶然発生して偶然この世に生まれて偶然死んでいくのではない。また、神さまが全てのものをお造りになったとしても、それは神さまが何か気まぐれにお造りになったというのでもない。ちゃんとしたメッセージを持ってお造りになった。私たちに言葉によって語り聞かせることのできるような意味と目的をもってお造りになったということです。そして、そのように私たちに聞かせたいメッセージ、意味と目的が、「言」とヨハネが表現しているイエス・キリストに表れているということです。
今でも、私たちの教会堂を見学させてほしいと言って訪れる方がいます。そしてご案内して、説明することになるのですが、この壁がなぜこのようなレンガでできているのか、また、この洗礼盤がなぜこのような陶器によって造られ、水色をしているのか、あるいは、この十字架がツヤがないのはなぜか、あるいは1階の薪ストーブを設置しているのはなぜか‥‥などということを説明することになります。それぞれもちろん、意味があって設計し、造ったのです。
ましてや神さまがこの世界をお造りになった時、それは意味もなくお造りになったのではない。一つ一つにちゃんと意味を持って、目的をもって、お造りになった。この私たちもそうです。一羽の雀さえもご覧になっている神さまは、私たち一人一人を大切に、しかも意味と目的をもって命をお与えになったのです。そういう神さまの愛が込められているのが、「言」という文字です。
ところが10節では、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と続く。天の父なる神さまが、言であるイエスさまによってこの世界をお造りになったにもかかわらず、この世の人々がイエスさまを認めなかった、と言っているのです。そしてそのことは、続く11節で「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」ということにつながっています。
それは十字架を指しています。この世をお造りになった方が、旧約聖書で予言されているとおり、ご自分の民であるイスラエルのところに来たのだけれども、人々はイエスさまを認めないで、かえって十字架に付けて殺してしまった、ということを指しています。そして12節で、そのイエスさまを受け入れる人、すなわちイエスさまを信じる人には「神の子」となる資格を与えたと書かれています。
最初は良いものとして造られた人間
「世は言によってなったが、世は言を認めなかった」‥‥何という恩知らずな、と思うでしょうが、そもそもこれは天地創造の時の出来事にさかのぼります。天地創造=創世記の1章〜3章です。神さまが世界をお造りになった時、それは「極めて良かった」(創世記1:31)と書かれています。極めて良いものとしてお造りになった。私たち人間もです。しかし、その良く造ったはずの人間が、エデンの園の物語で、「食べてはいけない」と神さまから言われた善悪の知識の木の実をサタンにそそのかされて取って食べました。罪を犯したのです。このことによって、神さまとの間に断絶が生じ、人間は死ぬこととなり、楽園を追放された、というあの物語が表していることです。
そもそも最初神さまは、人間を極めて良いものとしてお造りになりました。ところが今の私たちの社会を見ると、悪であふれています。また人間自身を見ても、相互不信や憎しみ、争いが多く存在し、不平や不満でいっぱいになり、そして最後には必ず死が訪れる。‥‥聖書は、それらの原因が人間が罪を犯したことによって、神さまから断絶しているからであると説明するのです。
「なぜ神さまが造ったはずの人間が、悪くなったのか?神さまは、人間を不完全に造ったのではないか?」‥‥そういう質問を時々受けます。しかしそうではありません。神さまは、人間をロボットのようにはお造りになりませんでした。ロボットは、人間がプログラムしたとおりに動きます。意志がありません。だから罪も犯しません。神さまは、人間の頭脳を、プログラムしたとおりに動くようにもお造りになることがおできになったはずです。しかしそうはなさいませんでした。神さまは「ご自分にかたどって」人間を創造されたと創世記1:27に書かれています。何を神さまに似せてお造りになったかというと、その一つは「自由意志」です。人間には、自由にものを考えることのできる者として、お造りになりました。
すると、神さまは、もしかしたら人間が神さまにそむいて罪を犯すかも知れない者、そういう可能性がある者としてお造りになったということになります。
このことについて、加藤常昭先生は、ヨハネによる福音書の説教の中で、ある神学者の言葉を引用して次のように言っておられます。つまり、なぜ神さまは、過ちを犯すかも知れない者として人間に自由意志を与えてお造りになったのか、ということです。‥‥それは、イエスさまがおられた方だというのです。‥‥イエスさまがおられたので、父なる神さまは安心して人間に自由意志をお与えになることができた。イエスさまが責任をとってくださるので、というのです。
私は大変感動いたしました。このヨハネ福音書の1:2で、「万物は言によって成った」と述べられている。私たちは、神と共におられる言である、イエスさまが十字架にかかって責任をとることを覚悟の上で、私たちに命を与え、自由意志を与えられたのです。
神さまが最初人間をお造りになった時、極めて良い者としてお造りになったというのは、そのように言であるイエスさまがおられたゆえに、極めて良い者なのだと言うことができます。
光へ招くイエス
そうすると、もともと人間は極めて良い者として造られたのですから、もともと「神の子」であったと言っても良いでしょう。しかし、神様の言うことを聞かないで、罪を犯してしまったので、神の子ではなくなった。人間のほうから造り主である神さまの所を去っていったのです。
すると「言はご自分の民の所に来た」というのは、神さまを離れていった人間を追いかけるようにして、神さまの者としてもう一度取り戻すために、ご自分の民の所へ来られたと言うことができるでしょう。その場合、この「ご自分の民」というのは、ユダヤ人のことであると限定する必要はないのです。
命の源である神さまの所から離れ、罪を犯して暗闇の中に存在する人間を、もう一度神の子として神さまの所へ取り戻すために、イエスさまは来られたのだ。そういうことです。それが「言」であり「光」であるイエスさまです。そのイエスさまを信じるように、光の中へ戻っていくように招かれているのです。
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先週の平日、教会のクリスマスの案内のチラシを配るために、五福のほうへ行きました。だいたいは学生街のアパートの郵便受けに入れていったのですが、そこにマンションがあったので、そこのポストにも入れようと思って玄関に入りました。すると玄関脇に管理人室があって、年輩の管理人の方がいて椅子に座っていたので、「チラシを配布したいので
すがよろしいでしょうか?」と聞いてみました。
すると「何のチラシかね?」と聞いてきたので、「クリスマスの案内のチラシです」と答えました。するとまた、「クリスマスの案内と言っても、何の案内かね?」と聞かれたので、チラシを見せながら「教会のクリスマスの案内です」と答えました。すると管理人さんは、「キリスト教か。この前ここでもたいへんなことがあった。『地獄へ堕ちる』と脅されて、たいへんな目にあった人がいた」と言うのです。
私は、「それは一般の教会ではありませんね」と答えました。すると管理人さんは、「でもキリスト教だと言っていた」と言うのです。それで私は、「キリスト教と名乗る、おかしな宗教がいくつもあるのです。私たちの教会は、そういうおかしな宗教とは関係ありません」と答えました。しかし、要するになんのチラシでも配布させてもらない雰囲気でしたので、そこは遠慮しました。
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私も、「信じないと地獄に落ちる」と言って回る団体や、一度その教会のような所に入ってからやめようとすると、「地獄に落ちるぞ」と言って脅かす団体があるのを知っています。相談を受けたこともあります。そしてそれらの団体もまた「キリスト教」を名乗っていることも知っています。
しかしこのヨハネの福音書の最初の所が語っているのは、私たちを脅かすことなのではなくて、逆に、私たちを光へと招いておられるのです。イエスさまは、私たちを神さまのものとするために、招くために来られたのです。
その管理人さんが言う、キリスト教の名前を使うおかしな宗教団体は「信じないと地獄に堕ちる」と言うのでしょうが、ここで言われていることはそうではありません。「地獄」というのが暗闇であるとしたら、これから暗闇に落ちるのではなくて、もうすでに人間が暗闇の中に置かれているというのです。‥‥力のない、喜びのない、希望のない、命のない、愛のない‥‥そういう「暗闇」の中に、私たち人間がもうすでにいる。その暗闇の中にいる私たちの所に、イエスさまが光として来られ、神さまの所へ招いておられるのです。イエスさまは、私たちを暗闇に落とすために来られたのではなく、暗闇から引き上げるために来られたのです。私たちを地獄に落とすために来られたのではなく、すでに地獄と言える暗闇の中にいる私たち人間を引き上げるために来られたのです。勝手にキリスト教を名乗るおかしな団体は、そこが完全に間違っています。
イエスさまは暗闇の中にいる私たちを救うために来られた。救いの光の中へ招くために来られたのです。そのイエスさまの招きに応えるのが、「信じる」ということです。そして信じることによって、もう一度最初の状態「神の子」である状態へ戻される。そういう資格です。
招き続けるイエス
「言」であるイエスさまは、ご自分の民の所に来られましたが、この世の人々はそれを受け入れなかった。しかし、にもかかわらず、イエスさまは、この世の人から受け入れられず、ついには十字架にかかってまでも私たちを愛して、神さまのものとして取り戻されたのです。そのことを信じるのです。
「言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった」。‥‥「私はもうイエスさまを受け入れた」と言う人もいるでしょう。確かにイエスさまを信じています。しかし、毎日聖書の御言葉を信じて受け入れているでしょうか。
先週、私はいろいろな問題がありました。難しい問題、いろいろな心配が山のようになって覆い被さってくるかのようでした。そうするといつの間にか、不平や不満、そして神さまに祈っても無駄ではないかとさえ思えて参りました。ところが、そのような時、主は御言葉を私に示されました。それは1テサロニケ5:16〜18の御言葉です。‥‥「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
いつの間にか、不平不満や、心配でいっぱいになってしまっていたのです。「御言葉が民の所へ来たが、私は受け入れなかった」ということになってしまっていたのです。これでは神さまは働くことができません。それで、一つ一つの問題を、順番に神さまに感謝することができるように、聖霊の助けを求めました。「主よ、この問題をあなたが解決することがおできになる方であることを感謝します。天地を造られたあなたが、この小さな問題を解決できないことがあるでしょうか。主よ、感謝します‥‥」という具合です。すると次第に、暗闇に光が差し込んでくるように、明るくなってきました。そして、主が解決してくださることを信じられるようになっていきました。
毎日私たちは暗闇に落ち込んでしまうかも知れません。何か神さまを忘れてしまうかも知れません。しかしイエスさまは来てくださっているのです。そのイエスさまの御言葉を思い起こすのです。イエスさまは、たとえ民が受け入れなくても、私たちが無視しようとも、十字架にかかるほどに私たちを愛し、神さまの元へ招き続けてくださる方です。感謝します。
(2007年12月16日・アドベント第3聖日)
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