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●聖書 ヨハネによる福音書1章4〜9
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言〜命〜光
さて、きょうは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と続きます。
きょうの個所で出てくるポイントに「光」という言葉があります。きょうの聖書だけではなく、ヨハネによる福音書にたくさん出てきます。新約聖書の中で、この「光」という言葉は半分ぐらいが、ヨハネによる福音書やヨハネの手紙、ヨハネの黙示録という「ヨハネの書いたもの」の中に出てくるのです。それほど、ヨハネは「光」という言葉をよく使います。
またそれと反対の意味の言葉になりますが、「暗闇」という言葉もよく出てきます。5節に「光は暗闇の中で輝いている」とありますが、これです。
先々週の土曜日、アドベント第1聖日の前の日曜日、アドベントの準備がなされましたが、教会員の兄弟が教会前の花壇にあるモミの木(これは当教会の新会堂建築の時に植えた記念樹です)に、毎年付けているクリスマスのイルミネーションを付けてくれました。
このイルミネーションは、教会の街灯と連動していて、夜になると自動的にスイッチが入って点灯するようになっています。ですから夜になるのを楽しみにしていました。ところが夜になっても点灯しない。真っ暗です。「壊れたかな?」と思いました。向かいの大和デパートのツリーは、きれいに点灯しているのに、残念です。後になって「もしかしたら、イルミネーションをつないでいるコンセントに電気が来ていないのではないか?」と思って、他のコンセントにイルミネーションをつないでみました。するとつくではありませんか。やはりコンセントがダメになっていたのです。これは自分では直せないので、業者さんに電話して修理の工事をしてもらいました。そして夕方になり時間になると、イルミネーションが点灯しました。そうすると、グランドプラザの巨大ツリーに比べると、真にささやかですが、その小さな電球の明かりが、なんとも美しいものに見えます。このクリスマスツリーの電飾も、暗闇に輝く光を現しています。
こんな小さな電気でも、あるのと無いのとでは大違いです。また先月は、教会堂全体が(牧師館も)停電してしまいました。これもすぐに来てもらって修理の工事をしてもらったのですが。夜停電すると、本当に真っ暗です。どうしたかというと、教会のクリスマスの時に使うローソクを探し出して、それを点灯して明かりにしました。ローソクの明かりで仕事をしました。残念ながら、パソコンはローソクでは動かないのですが。すると、昼間は何の役にも立たないローソクが、真に明るく輝いて見えました。
そのように、光の尊さは、暗闇の中において分かるのです。
暗闇
停電の暗闇なら、ローソクをともせば照らすことができます。あるいは懐中電灯でも良いでしょう。あるいはあきらめて寝てしまっても、朝になれば明るさが戻ってきます。しかし、人間の暗闇はどうでしょうか。人間社会の暗闇、あるいは人間の心の中の暗闇です。
昨日は12月8日でした。「12月8日」と聞いて、「日米開戦記念日」あるいは「太平洋戦争が始まった日」と思い出される方は、ある程度年輩の方でしょう。私が学生時代頃までは、それでも毎年12月8日になると、新聞やテレビで太平洋戦争を振り返る特集や、それを記念する行事のニュースがあったものです。
戦争‥‥まさに人間の殺し合いであり、奪い合いです。憎しみ合いです。他人を殺して自分は生き延びる。しかしその戦火がこの地球上から絶えたことがないのです。また、戦争が社会の暗闇を象徴的に表す出来事であるとしたら、私たちの社会には暗闇が満ちているかのようです。
次に「12月8日」と聞いて、「ジョン・レノンの殺された日」と答える方は、先ほどの方よりももう少し若い方です。私などはこちらのほうです。元ビートルズのメンバーであった天才的なミュージシャン、ジョン・レノンがニューヨークの路上で見知らぬ男に拳銃で射殺されたのは、もう27年も前のことでした。
先ほどの戦争が社会の暗闇の象徴であるとしたら、ジョン・レノンさんが射殺されたというのは、個人の心の闇を象徴するような事件であったと言えるでしょう。
人間の心の中の闇。それは、憎しみであり、妬みであり、偏見であり、利己心です。それらのことについては、新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」の5章に「肉の業」のリストとして書かれているところのものです。
そして、最後に全ての人間に臨む暗闇が「死」です。誰もこの暗闇から逃れることができません。
そうすると、私たち人間は、この社会の暗闇の中で生き、人間関係の暗闇の中で山あり谷ありの人生を歩み、心の中の暗闇によって喜びを奪われ、そして最後は「死」というまったくの暗黒によって終える‥‥実は人間の一生というものはそのように見えてきます。
暗闇の中に輝く光
私たちを引きずり込もうとする暗闇の力。それに対決するかのように置かれている言葉が、「光」という言葉なのです。
神が天地を造られた。言によって造られた。洗礼者ヨハネという人もいた。光を証しするためにこの人は来た。‥‥それは過去に起こった出来事です。しかし、「光は暗闇の中で輝いている」‥‥過去に輝いていただけではなく、今も、輝いているのです! 今私たちのところにも輝いているのです。その光が、命の源であるイエス・キリストであると、この福音書は言いたいのです。
以前申し上げたように、私は、大学を出て会社に就職しましたが喘息が悪化して、ある時救急車で病院に担ぎ込まれました。酸素マスクを付けられ、注射が何本も打たれ、点滴でつながれました。しかし呼吸ができなくなって、そのうちに目の前が真っ暗になりました。本当に真っ暗になりました。血液中の酸素が不足して、目が見えなくなったのだと思います。意識ももうろうとしてきました。それはまさに暗黒の中に落ち込んでいくように思われました。自分は死ぬんだなあ、と思いました。しかしどうすることもできないのです。病院のベッドで、医者がどうすることもできなければ、ましてや自分がどうすることもできません。
その時、心の中のどこかから「こんなところで死にたくはない」という熱烈な思いが沸いてきました。その時、昔教会に行っていた時のことを思いだしたのです。神さまを思い出したのです。そして「神さま、助けてください」と心の中で叫んでいました。それは、まったくの暗黒の中に落ち込んでいく私に残された、ただ一つの手段でした。
私は助かりました。しかし会社を辞めることとなり、田舎に帰りました。神さまに命を助けられたこともすぐに忘れて、私は今度は、「挫折」という暗闇の中にいました。そして省略しますが、まったく不思議な幼なじみとの出会いがあり、しかも彼がキリストを信じる者となっていました。そして彼が、私のために祈ってくれたのです。その時、私はまさに心の中に光が差し込んだような気がしました。そこから私は、キリスト者としての道を再び歩み始めることができたのです。
そして今日、この個所の説教の準備をしていて、その時のことを思い出しました。
「光は暗闇の中で輝いている。」キリストという光は暗闇の中に輝いているのです。いや、暗闇の中でこそ、それがまぎれもなく私たちを救う光であることが分かるのです。
闇は光に勝たなかった
5節の後半に、「暗闇は光を理解しなかった」という言葉があります。
ここを読んで、「あれ、こんな言葉だったかな?」と思われた人は、口語訳聖書や新改訳聖書を使っていた人です。ここは口語訳聖書では、「闇はこれに勝たなかった」となっているのです。しかもそれは有名な聖句でした。
「一体どっちが正しいの?」と思われることでしょう。実はどちらも正しいのです。なぜなら、新共同訳聖書で「理解しなかった」という意味のギリシャ語は、「勝たなかった」とも日本語に訳せるからです。英語の聖書でも、ここの訳し方は二つに分かれています。どちらのほうに訳すのか、学者の先生も困る所なのです。
「暗闇」というのは人間の闇を指していて、「光」はイエスさまを指しているのですから、「暗闇は光を理解しなかった」と訳す場合は、分かりやすく言えば、人間がイエスさまを理解しなかった、ということになります。だからイエスさまを十字架にかけてしまったということです。そのように十字架が見えてくる。
そしてそれは私についても言えることです。私はかつて、教会に通っていたにもかかわらず、イエスさまが理解できませんでした。勉強が足りないというのではない。なんだかよく分からなかったのです。それで教会を去っていきました。イエスさまを信じたい、というところまで行かなかった。
一方、ここを前の口語訳聖書や新改訳聖書のように、「闇は光に勝たなかった」というふうに訳すと、それは、人間の暗闇はイエスさまには勝たなかった、ということです。人間の心の中の暗闇が、あるいは社会の暗闇が、どんなに深いかも知れない。にもかかわらず、それはイエスさまという光に勝たなかったということになります。つまり今度は復活が見えてきます。
わたしはこのように、日本語や英語に訳すと、どちらの意味にも取れるギリシャ語が使われているということは、それは神さまの導きであると思います。すなわち、両方とも正しいのです。‥‥「暗闇は光を理解しなかった」、と同時に、「暗闇は光に勝たなかった」ということです。
私たち人間が、どんなにイエスさまを理解せず、十字架にかけてしまっても、イエスさまは勝利されたということです。それはイエスさまの復活が証明しています。十字架と復活が見えてくるのです。
私たち人間の心の闇が、どんなに深くても、絶望的でも、それは光であるイエスさまに勝たなかったのです。
「勝たなかった」とここは過去形です。すなわち、私たちが今暗闇の中でうめいているとしても、もうイエスさまはすでに勝利されているのです。私たちがイエスさまを信じるならば、もう勝利は決まっているのです。そういうことです。
「暗闇は光を理解しなかった」にもかかわらず、「暗闇は光に勝たなかった」のです。この世界を覆う暗黒にもかかわらず、私たちの身の回りに及ぶ暗闇や恐怖にもかかわらず、また私たちの心の中の暗闇にもかかわらず、その暗闇は光であるイエスさまに勝たなかったのです。勝利はイエスさまのものです。
暗闇は光の陰
そもそも暗闇とは、なぜ暗闇なのでしょうか。とは言っても、私は何か哲学的な話をしようというのではありません。単純な話しです。夜になると暗くなります。それはなぜかと言えば、太陽が無くなってしまったからではなく、地球の自転によって私たちのいる場所が太陽の陰に入ってしまったからです。太陽はちゃんと地球の裏側にあって、やはり輝いているのです。
私たちが、太陽に背を向けると、影ができます。そこは他よりも暗い。しかし太陽の方を向けば、まばゆいばかりの明るさです。燭台に灯をともして、寝台の下やますの下に置く人はいません。振り返って光のほうを見るのです。イエス・キリストという光は、「暗闇の中で輝いている」(5節)のです。今も輝いているのです。光に背を向けていないで、光の方を向けば良いのです。キリストの光は、「全ての人を照らす」(9節)のです。わたしのところにも、あなたのところにも、キリストの光は照らしているのです。光の方を向くのです。闇のほうばかり見ないで、光の方を向くのです。
闇は光に勝たなかったのです。暗闇は、キリストの光に勝たなかったのです。どうか時々心の中で、あるいは声に出して言ってみてください。「暗闇は光に勝たなかった」「暗闇は光に勝たなかった」‥‥と。主の御霊の光が次第に差し込んでくるのが分かるでしょう。
(2007年12月9日・アドベント第2聖日)
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