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●聖書 ヨハネによる福音書1章1〜3
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
初めに言があった
「初めに言があった。」ヨハネによる福音書の書き出しです。
「初めに」という書き出しを、他に聖書のどこかにあったと気がつかれた方もおられることでしょう。それは旧約聖書の一番初めの書である創世記の、その書き出しです。そのところにはこう書かれています。
「初めに、神は天地を創造された。」
両方とも「初めに」という言葉で始まっています。旧約聖書の創世記でいう「初めに」というのは、天地創造の初めにということです。この私たちの生きている宇宙万物が存在する前ということです。そういうこの世の時間の始まりです。「初めに神は天地を創造された」、これはこの天地宇宙が偶然発生したというのではなく、神さまがお造りになったのだ、ということを説明している言葉です。
それに対して、ヨハネによる福音書のほうの最初の言葉、「初めに言があった」こちらはどうなのか。こちらもまた、そういう時間の始まり、天地宇宙が神さまによって作られる始まりのことを言っています。そうすると、このヨハネによる福音書も、創世記と同じことを言っているように見えますが、ヨハネでは「初めに言があった」という。そして3節をごらんになると、「万物は言葉によって成った」とあります。「万物」とは、読んで字のごとし、全てのものですから、天地宇宙とその中に存在する全てのものということになります。
そうすると、このヨハネによる福音書の「初めに言があった」という文言は、創世記の「初めに神は天地を創造された」という言葉について、その説明をしていると言うことができます。すなわち、神さまは初めに天地をお造りになったけれども、それはこの「言」によって成ったのだ、ヨハネのいうところの「言」によって造られたのだ、と言っていることになります。
このことについても、聖書を読まれた方は、「それはそうだ、創世記を見ても、神さまは言葉によって全てのものをお造りになった」と思われることでしょう。たしかに創世記を見ますと、神さまが最初にお造りになったのが光でしたが、創世記1章3節にはこのように書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。また次に神さまは、水を造られましたが、創世記1章6節を見ると、「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』」このようにして神は、水をお造りになりました。‥‥こうして神さまは、言葉を発することによって、全てを造っていかれたことが書かれています。ですからたしかに、ヨハネによる福音書が記しているように、「万物は言によって成った」と言えるでしょう。
「言」とはなにか
しかし実はヨハネが言わんとしていることはそうではなくて、もっと他のことを言おうとしているのです。「万物は言によって成った」とヨハネが書く時、それは神さまが単に口から言葉を発して全てのものをお造りになったということを言いたいのではない。
そのことは、私たち日本語の聖書を見ても表れています。ヨハネによる福音書のこの最初の「ことば」という文字をよく見ると、「言」と漢字一文字で表現されています。しかし私たちが一般に「ことば」と漢字で書く場合は、「言葉」と、葉っぱの「葉」をつけます。しかしヨハネではそれがない。普通人間が語る「言葉」とは区別をしているのです。
これが英語の聖書ではどうなっているかというと、英語では「言葉」は「word」ですが、たいていは「Word」と大文字にして、普通のwordとは区別をしています。つまり、このヨハネが言わんとしているこの1章の「言」というのは、特別な言であることを、なんとか表現しようとしているのです。
三浦綾子『海嶺』
私は、ヨハネによる福音書を礼拝の連続講解説教で取り上げるのは、実は今回が初めてのことです。私が最初に牧師になった時、取り上げた福音書は「マルコによる福音書」でした。次にマタイによる福音書を取り上げました。これは二番町教会でも連続講解説教をいたしました。そして今、夕礼拝でルカによる福音書を読んでいます。ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書とはだいぶ違っています。その詳しいことはまた順次触れていくとして、初めてヨハネによる福音書に取り組むにあたって、私は或る本を読みました。それは、もう亡くなった三浦綾子さんの『海嶺』という小説です。
この小説は、江戸時代の実話をもとにしています。日本人の漂流記です。愛知県の千石船「宝順丸」が、14人の船乗りと共に御用米を積んで愛知県知多半島の小野浦を出て、江戸に向かう途中、遠州灘沖で嵐に巻き込まれて遭難します。嵐の強風によって転覆しないように、帆柱を切った舟は、海流の流れるままに漂流します。船乗りたちは、野菜がないために次々に壊血病で死んでいき、1年2カ月という長い間漂流して、北アメリカ西海岸のフラッタリー岬に流れ着きました。その時に生き残っていたのは、岩吉(岩松)、久吉、音吉の3人だけでした。彼らが流れ着いたのは、インディアンの村で、彼らはそこでインディアンの奴隷にされてしまいますが、日本人が流れ着いたことを聞きつけたイギリスの会社が3人を買い取る形にして救出し、その善意によって祖国日本に帰る航海を始めます。アメリカを出発したイギリスの軍船は、いったんハワイに寄り、そして太平洋を南下して南アメリカ最南端の難所・ホーン岬を通り、さらに大西洋を横断し、イギリスに到着します。そして船をイギリスの商船に乗り換えて、アフリカ南端の喜望峰を回りインド洋を経て、当時はポルトガル領であったマカオに着きます。そして時を経て、アメリカのクリスチャンの援助によって「モリソン号」という船に乗って、夢にまで見た祖国日本を目指します。実に漂流して6年が経過していました。
そしてついに江戸湾に入る。ところが当時は日本は鎖国をしていました。しかも「外国船打ち払い令」が出ていた。それでモリソン号は陸上から大砲によって砲撃され、岩吉たちは上陸を果たせないままに涙ながらに日本をあとにする‥‥そういう物語です。
なぜこの物語とヨハネによる福音書が関係あるかというと、この漂流して世界を一周した3人の日本人こそ、プロテスタント教会が最初に聖書を日本語に翻訳した協力者であるからです。岩吉たち3人はマカオにて、メソジストの宣教師ギュツラフに家に世話になります。そしてギュツラフは、聖書を日本語に翻訳するという夢を実現しようとする。それで、この岩吉たち3人に協力を頼むのです。
岩吉たちは、最初とまどいます。なぜなら、聖書はキリシタンの書物であり、当時の日本はキリスト教は御法度だったからです。日本に帰った時、自分たちがキリスト教に接触したということが分かれば殺されてしまう、という恐れを抱きます。しかし、振り返ってみれば、北アメリカに漂着して依頼、見ず知らずのこの日本人のために、いつも快く助けてくれたのは、いつもキリスト教徒たちでした。岩吉たちは考えます。‥‥これが逆に、日本に外国人が漂着したとしたら、どうだろうか。おそらく、ただではすまないだろう。下手をすれば、打ち首となるだろう‥‥そう考えると、一文無しの自分たち漂流民を親切に取り扱い、しかも祖国まで費用を負担して届けてくれるという。キリシタンは悪い教えであるはずがない。そう思うようになった岩吉たちは、ギュツラフの翻訳作業に協力することになるのです。そして、その最初の日本語聖書が、「ヨハネによる福音書」であったのです。
なぜ、ギュツラフは聖書の中から、マタイでもなくマルコでもなく、第4福音書であるヨハネによる福音書を選んで、日本語に翻訳することにしたのか?
このことについて三浦綾子さんの小説では、ギュツラフとキング氏(岩吉たちを船に乗せて日本に送っていくことになる人)との対話の中で次のようなやり取りがあります。
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キング:「ミスター・ギュツラフ。あなたが日本のために、ヨハネ伝とヨハネの書簡を選ばれたのは、なぜですか。マタイ伝やルカ伝のほうが、どこの国の言葉に訳すにしても、たやすいと思うのですが」
ギュツラフ:「ええ。そのことは皆さんによく言われるのですよ。確かにたとえ話の多いマタイ伝やルカ伝のほうが、翻訳は簡単です。何せヨハネ伝は形而上的に過ぎますからね」
キング:「全く。4福音書では、一番取っつきにくい福音書です」
〜この後ギュツラフが、ヨハネ伝は兄弟愛について良く書かれている福音書であることを挙げる。そして、
ギュツラフ:「ミスター・キング。私がヨハネ伝を選んだのは、それだけではありません。彼ら3人とマカオの社寺を巡った時、私は彼らが、どこに行っても頭を下げることに気がついたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。それで私は、アテネのあの『知られざる神に』手を合わせる記事を思い出したのです」
キング:「ああ、使徒行伝にある、あのアテネの神々のことですね」
ギュツラフ:「そうです。おっしゃるとおりです。ミスター・キング。それで私は、キリストの神性を確実に伝えるヨハネ伝を選んだというわけです」
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当時の日本人は信心深く、特に船乗りはいつも死と隣り合わせだったので信心深い。それで、何でも神さまのようにして拝むのを見て、真の神さまは、キリストなる神であることを教えるために、ヨハネ伝福音書を選んだというわけです。
このやり取りがヨハネによる福音書の特徴を、見事に言い表しています。
言=イエス・キリスト
さて、実際の翻訳作業で、1節の「言」をどのように日本語に訳したらよいかでギュツラフも岩吉たちも苦労するのです。英語では「ワード」ですが、ギュツラフはこれはギリシャ語では、いわゆる人間のしゃべる言葉とも違うという。そしてギュツラフは、この「ワード」は、ギリシャ語では「ロゴス」という言葉であって、それは天地を造り出す力でもあり、善悪を判断する知恵でもあり、全てのものを存在させている秩序でもあるという。
この「ロゴス」の説明を聞いて、岩吉たちは、どう日本語に現したらよいか頭を抱えて悩むのです・そして3人のうち久吉が、日本にいた時に近くの寺の和尚さんが「善悪のわからない者は、愚か者だ」と言っていたのを思い出すのです。そして善悪が分からない者が愚か者であるならば、善悪が分かる者はその反対だから、「賢い者」であると結論づけるのです。
こうして、初めての日本語のヨハネによる福音書の最初の1節は次のように翻訳されました。
「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノカシコイモノ ゴクラク。ゴクラクトモニゴザル。」(なぜ「神」を「ゴクラク」と訳したのかはまた別の機会に。)
このように、私たちの今持っている日本語の聖書が「言」と訳し、170年前にマカオで日本の船乗りたちが「賢い者」と訳したこの「ロゴス」こそ、聖書の主題であるイエス・キリストのことなのです。
すなわちヨハネ福音書が冒頭で私たちに告げていることは、天地創造の前に、イエス・キリストという「言」が存在していた。そしてそのイエスさまは初めから神と共にあり、それによって万物が造られた‥‥そのように告げているのです。
人間の目から見ると、イエスさまは2000年前にベツレヘムでお生まれになったと見える。確かにその通りです。しかしそれは人の子としての誕生であって、実はそのイエスさまは太古の昔より存在しておられたということです。私たちは神さまによって造られましたが、イエスさまは造られたお方ではない。時間の初めから神と共に存在しておられたというのです。
神のメッセージ
言葉というものは、何のためにあるのでしょうか?‥‥それは、自分以外の人と意志を通じ合うためにあると言えます。言葉がなければ、他人と会話をすることができません。自分の意志を伝えることが難しいのです。自分が何を考え、何を言いたいのか、全て言葉があるから、他人にそれを伝えることができるのです。言葉は、自分以外のものに対するメッセージなのです。
ヨハネ福音書は、神は言によって万物を造られたという。宇宙と、その中に存在する全てのものを言によって造られたという。私たちもそうです。すなわち、神は、この世界をお造りになった時、そこに意志を持って、お造りになったのです。しかも私たちに伝えたいメッセージを伴って、お造りになったのです。そのメッセージがイエス・キリストであるということです。
私たちは、偶然発生した宇宙から、偶然地球が生まれ、偶然誕生したのではない。意味も目的もなく、この世に生まれたのではないのです。「初めに言があった」と書かれているように、神さまは意味と目的を含むメッセージによって全てのものをお造りになった。そして私たちを造り、命をお与えになったのです。
私たちは、何か自分が暗闇の中に取り残されたように思われる時があるのではないでしょうか。泣いても叫んでも、何の答えもないように思われる時があるのではないでしょうか。そのような時に、思われることはないでしょうか。「神などいない。自分は偶然生まれて偶然死んでいくのだ」と。
しかしヨハネ福音書のメッセージは違います。神さまは、愛をもって意志を持ってこの世界をお造りになり、私たちに命をお与えになりました。私たちに伝えたい言によって、お造りになりました。私たちにメッセージをお与えになっているのです。
その言、メッセージこそ、「カシコイモノ」イエス・キリストです。このイエスさまについて学んでいくことによって、私たちは神さまの御心を知るのです。私たちは、ヨハネによる福音書によって、その主イエス・キリストと共に進んでいきたいと思います。
(2007年12月2日)
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