Q.アメリカのブッシュ大統領はクリスチャンだと聞きましたが、教会はイラク戦争について支持するのですか?
A.支持しません。そもそも戦争という暴力的手段によってものごとを解決しようとすることを主イエス・キリストは許しておられません。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)とのお言葉通りです。
たしかにブッシュ大統領はクリスチャンであるそうです。しかし残念なことに、クリスチャンがみな主イエスの教えに従っているかというと、そうではないのです。わたしたちもこのことを他人事として批判するのではなく、自分自身ほんとうに主イエスの教えに従っていけるよう、悔い改めなくてはなりません。
Q.この戦争は、キリスト教とイスラム教の「一神教」どうしの戦争ではないですか。
A.それは違うと思います。少なくともこの戦争は宗教の戦争ではありません。もっと他の理由で戦争になっているのではないでしょうか。ほとんどのキリスト教徒は、和解と平和を望んでいます。
また、「神はひとりである」と考えるのが「一神教」であるとすれば、たしかにイスラム教、ユダヤ教、キリスト教は一神教かもしれません。しかしキリスト教は、イスラム教やユダヤ教が言うような意味での一神教ではありません。厳密に言うとキリスト教は一神教ではなく、「三一神教」(さんいつしんきょう)です。つまりわたしたちの信じる神さまは、「三位一体」(さんみいったい)の神さまです。神は単一なのではなく、父なる神・子なる神・聖霊なる神と、神の内部で豊かな在り方をもつ「三つにいましてひとりなる神」なのです。ですから、キリスト教を「一神教」と呼ぶのは間違いです。
Q.一神教の偏狭さに比べて、日本は多神教なので寛容であるという人がいますが。
A.たしかに一部の文化人によって、そのようなことが言われます。しかしそこには大きな誤解があります。また、「多神教は、他の神さまを認めるから寛容である」と言いますが、かつて日本に非寛容な時代があったことを忘れています。たとえば、明治維新後には「廃仏毀釈」ということが行われ、仏教が弾圧されました。また、先の満州事変〜太平洋戦争に至るまでの歩みの中で、日本政府は朝鮮のキリスト教会に神棚を作ることを強要し、まずそれを拝んでからでないと礼拝を始めさせませんでした。そのようなことがあったことを忘れています。今でも、たとえばいろいろな宗教の人がいるにもかかわらず、全員が払う町内会費から神社に分担金を納めているケースが多いのではないでしょうか。これを寛容とは言わないと思います。そもそも「寛容」というのは、他人に対して寛容を求めることではなく、自らが寛容であるということのはずです。
次に「一神教は偏狭」という言い方です。キリスト教は一神教ではありませんが、少なくとも主イエス・キリストの博愛の教えは、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という言葉にその頂点があるように、寛容の精神です。この「敵」という中には、もちろん異なる宗教の人も入っているわけで、そういう人も愛し、その人が自分を迫害したとしても、祝福を祈ってあげなさいとおっしゃるのです。
Q.キリスト教会は、かつて十字軍のような戦争行為に手を貸しましたが、それは誤りではないのですか?
A.誤りです。聖地を奪回するために軍隊を派遣して暴力を働くなど、無抵抗のまま十字架にかけられた主イエスをふたたび十字架にかけてしまうような行為です。この中世の十字軍について、当事者であるカトリック教会は、2000年にローマ法王が正式に誤りを認めて謝罪をしました。同じ過ちを繰り返してはなりません。
Q.宗教は、お互いに争うのではなく、仲良くすべきではないでしょうか?
A.まったくその通りだと思います。
Q. 聖書はいつ頃できたのですか?
A. 聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。「旧約聖書」の中には、39の文書が収められています。そのぞれぞれが、別々に書かれて、後から集められたのです。そのうち古いものは、だいたい紀元前1300年頃から、新しいものでも紀元前300年頃までに書き記されてきたと言われています。これは日本では、縄文時代になります。
一方「新約聖書」は、27の文書が収められており、これらはいずれもイエス・キリストの昇天後から1世紀の終わりまでに書き記されたものが集められています。ですから、とてもふるいものです。
Q. 聖書は誰が書いたのですか?
A. 今述べたように、聖書は長い間に書かれたいくつもの文書が集められたものですから、一人で書いたものではありません。しかも、その筆者が誰であるかということは、分かっている文書もあり、よく分かっていない文書もあります。たとえば、旧約聖書では、「詩編」という詩が集められた文書がありますが、その中には「ダビデの歌」と書かれているものがあり、これはイスラエルの第2代目の王のダビデが書いたということが分かります。また、「イザヤ書」「エレミヤ書」などというのは、それぞれ預言者イザヤ、預言者エレミヤが書いたということが分かります(異論もありますが)。しかし、「創世記」のように分かっていないものもあります。
新約聖書では、だいたい分かっています。「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」といった福音書や、「ヨハネの手紙」「ヤコブの手紙」など、人の名前が冠せられたものは、その人が著者です。また、「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」などの13の手紙は、初代教会の伝道者である使徒パウロが書いたものであることが、手紙の中の署名から分かります。
Q. 聖書は「神の言葉」であると聞いたことがありますが本当ですか?
A. 本当です。
しかしそれには説明が必要です。今述べたように、聖書の中の文書にはそれを書いた人がいます。ということは、人が書いたのです。しかも特に霊能力があるだとか、修行を積んだ人が書いた、というものでもありません。私たちと同じように、間違いもおかすし、失敗もする、そういう普通の人が書いたのです。もちろん神さまを信じている人には違いないのですが。
そうすると、そのように人が書いた書物が、なぜ「神の言葉」となるのか。それは、主イエス・キリストをあかしするものとして神の言葉となるのです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネによる福音書5:39)
最初教会の中には他にもさまざまな文書がありましたが、今の聖書が聖書として残されたのは、神の御心にかなうものだけが自然に選ばれていったのです。これを「聖霊の導き」と言います。
そのように、イエス・キリストを証言するものとして、また神の御心にかなうものとして、そして聖霊によって啓示されたものとして、聖書は神の言葉なのです。
Q. 聖書を買いたいのですが、どこで売っていますか?
A.大きな本屋さんであれば、たいてい売っていると思います。また売り場になくても、取り寄せてもらえます。あるいは、キリスト教の専門書店というのがあります。そこでは必ず売っています。キリスト教書店の住所等は、こちら(教文館のHP)等でお調べになると良いでしょう。また、たいてい教会でも分けてくれます。当教会でも取り扱っております。
Q. 聖書にもいろいろあるようですが、どれを選べばよいのでしょうか?
A.そうですね、日本語で出版されている聖書で、おもなものは、口語訳聖書、新共同訳聖書、新改訳聖書、文語訳聖書、現代訳聖書、などがあります。このようにいろいろありますが、日本語への翻訳者が違うだけで、内容が違っているわけではありません。ですから、一人で読む分には、今掲げた聖書ならば、どれを読んでも良いでしょう。
ただ、ご自分が通おうとしている教会があるならば、その教会で使用している聖書を選ぶのが良いでしょう。というのは、たいてい教会では、礼拝などで使用される聖書が決まっていますので、それと同じものを持った方が便利なのです。
Q. 分厚い聖書ですが、その中には読みにくい個所もあります。どこから読み始めたらよいでしょうか?
A.あなたの興味を引くところから読み始めたらどうでしょうか。はじめからすべてを読み通さなくてはならないというものではありません。ただし、新約聖書の「福音書」は、必ず読むべきです。イエス・キリストの生涯の働きについて書かれているからです。また旧約聖書では、「創世記」は読んだ方がよいでしょう。あとは、慣れるまで、興味のあるところを読めばよいでしょう。
とにかく、まずは聖書に親しむことです。「全部読もう!」と意気込んで読み始めて、途中で投げ出してしまっては、なんにもなりません。おもしろそうな所をまず読むのです。だんだんその魅力が分かってきたら、聖書の最初から最後まで、通読することをお勧めします。
Q. 教会の礼拝は、信者でない人も行っても良いのですか?
A. もちろん、O.K.です。
Q. 「神父さん」と「牧師さん」は、どう違うのですか?
A. 「神父」というのは同じキリスト教でも、カトリック教会の教職のことです。また「牧師」というのは、プロテスタント教会の教職者のことを言います。
違いはいろいろありますが、カトリックの「神父」さんは、男性に限られています。しかも結婚をしません。独身です。しかしプロテスタントの「牧師」は、女性でもなることができますし、結婚もします。
私も時々町の人から「神父さん」と呼ばれることがありますが、私たちの二番町教会はプロテスタントの教会ですので「牧師」であり、妻も子供もいます。
Q. 教会の礼拝では入場料を取られるのですか?
A. 入場料はいりません。
つけ加えておくと、礼拝のプログラムの中に「献金」があります。これは神さまへの感謝のしるしで金額は本当に自分の自由意志で決めるのです。ですから、ご用意がない方、献金したくない方は、しなくてもよいのです。
Q. 教会というのは、「聖書の話を聞きませんか?」と言って1件1件家を訪問して、何か絵のかいてあるパンフレットを売る団体ですか?
A. いいえ違います。それは「エホバの証人」(ものみの塔聖書冊子協会)という団体で、教会とは全く関係ありません。当教会では、そのような戸別訪問はしておりません。
Q.「日本キリスト教団」(日本基督教団)とはどんな団体ですか?
A. 「日本キリスト教団」(登記上は「日本基督教団」)とは、1941年(昭和16年)に、それまで日本に存在した多くのプロテスタントの教派が合同して成立した、宗教法人です。2000年度の教会数は1,730、信徒数は約20万人で、日本では最大のプロテスタントの教派です。
Q.同じ「日本キリスト教団」の教会でも、教会によってずいぶん違うように感じられますが。
A. たしかにそうですね。
その理由は、一つには、先に述べたように、日本キリスト教団内の教会は、もともと第2次大戦前はさまざまな教派に分かれていたからです。それが昭和16年に合同したのです。それまで存在した教派としては、「日本メソジスト教会」「日本基督教会」「日本同盟基督教団」「日本組合基督教会」「福音ルーテル教会」「きよめ教会」「日本バプテスト教会」「ペンテコステ教会」‥‥など、30余派がありました。大戦後、日本キリスト教団から離脱した教会も多くありましたが、とどまった教会も多くありました。ですから、教会によって戦前の教派の伝統を残しているところも多くあるのです。そういう伝統の違いによるものです。
第二には、日本キリスト教団は、どちらかというと、各教会の独自性が強いと言えます。本部の命令一つで統制されている団体ではなく、各教会が役員会を組織して意志決定をし、教会を運営しているので、教会によって独自色が出てくる部分があります。例えば、正典としての聖書に対する姿勢、使用している讃美歌、牧師の説教、礼拝堂の中の様子、など、違いが目立つ点も確かにあります。
Q.いろいろ教会がありますが、どこの教会に行けばよいのか分かりません。
A.まず大切なことは、それが「キリスト教会」であるかどうか、ということです。看板だけみると「キリスト」の字が入っていたりしても、実際にはキリスト教ではないものがあります。異端ではない、正統的なキリスト教会とは、三位一体(さんみいったい)の神を信じ、「使徒信条(しとしんじょう)」、「ニケア信条」(または、ニカイア信条)等の、古代教会の基本信条を重んじているものです。このことはそこの教会の牧師に聞かなければなかなか分からないことかも知れません。
次に、その教会が聖書を神の言葉として大切にしているかどうかです。「聖書は誤りの多い神話であり、参考書に過ぎない」とか、聖書以外の書物を聖書と並ぶ重要な書物としているような所は、やめた方がよいでしょう。
なかなか分からなければ、キリスト教放送局FEBCなどでも、適当な教会を紹介してくれますから、そちらのホームページにアクセスされると良いでしょう。
Q.私が行った教会では、「洗礼を受ければ必ず病気は治る」と言って、無理に洗礼を受けさせられたり、やめようとすると、「うちの教会を辞めてひどい目にあわなかった人はいない」と言って脅かすのですが‥‥
A.それはまともな教会ではありません。キリスト教の看板は掲げていても、キリスト教ではない、詐欺かもしれません。また「うちの教会を辞めてひどい目にあわなかった人はいない」という言葉は脅迫のようにも聞こえます。一刻も早くそのようなところは辞めることをお勧めします。そして普通の教会へ行かれることをお勧めします。
Q. キリスト教もいろいろな教派に分かれているようですが、どんな教派がありますか?
A. たしかにキリスト教にもいろいろな教派があります。大きく言うと三つに分けることができます。@カトリック、A東方正教会(ギリシャ正教)、Bプロテスタント です。そして、プロテスタントはさらに、ルター派、改革派、メソジスト派、長老派、バプテスト派、会衆派、ペンテコステ派、などに分かれて存在しています。当教会の属する「日本基督(きりすと)教団」もプロテスタントに分類できます。日本基督教団については、先述したとおりです。
Q. どうして教派に分かれたのですか?
A. それは教会の長い歴史の中で、分かれていったものです。教会は最初は一つでした。教会は、イエスさまが天に帰られたあと、120名ほどの弟子たち(女性もいました)が一つになって集まっているところに聖霊が降ったことによって、教会が誕生しました(使徒言行録2章)。その後、教会が世界に向かって発展していくに従って、教義や習慣にばらつきが出てきました。そして、教会が誕生してから千年後の1054年に、聖霊の教理やローマ司教の首位権、習慣の違いなどをめぐって、東方教会(ギリシャ正教)と、西方教会(ローマ・カトリック)に分裂しました。
そしてそれから約500年後、西方教会の中で、「贖宥券」(免罪符)の問題をきっかけにして、ローマ法王の首位権、聖書の権威の問題、教理の問題をめぐって、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが「95箇条の提題」を発表して教会改革運動が始まりました。そしてルターがローマ法王から破門され、独自の教会を形成していったのを皮切りに、その後カルヴァンやツヴィングリなどの宗教改革者が次々と活躍し、ローマ・カトリックに属さない新しいプロテスタント教会が生まれていったのです。
Q. 教派は対立しているのですか?
A. たしかに、宗教改革期やその直後など、不幸にして激しく対立した時代もありました。また、教派の違いを口実にして、権力者が戦争をした(実際の動機は教派の違いではないと思われますが)時もありました。しかし現在は、そのような対立の時代を反省し、むしろ同じ神、同じキリストを仰ぐ兄弟姉妹として、共に祈り、教会の一致を目指す運動がなされるようになりました。ですから現在は、対立ではなく和解と共同の時代を迎えていると言えます。
当教会も、「富山市民クリスマス」や「世界祈祷日」などの行事を、教派を超えて共に担っています。
Q. 教派にはどういう違いがありますか?
A. この質問は、いろいろな習慣の違いなどをていねいに答えると非常に長い答になりますが、大まかなところだけをお答えすると、だいたい次の通りとなると思います。
まず違いではなくて、共通することを述べた方が分かりやすいでしょう。キリスト教各教派共通のことは、まず同じ方を礼拝しているということです。すなわち、同じ神さま、同じキリスト・イエスさまを信じているということです。また、正典である聖書も同じです。翻訳はいろいろありますが、旧約聖書と新約聖書を正典としているという点では同じです。さらに、基本的な教理も同じです。それは、「基本信条」と呼ばれる「使徒信条」や「ニケア信条」などが共通しているということです。
次に、違っている点をあげます。まずプロテスタントとカトリックの違いですが、ローマ法王(教皇)を教会の指導者としているかどうかが違います。カトリック教会はローマ法王を教会の最高指導者としていますが、プロテスタントは認めていません。また、聖母マリアについての考え方が違います。カトリックでは、マリアの「無原罪懐胎」や「被昇天」の教義がありますが、プロテスタントはそれを認めていません。カトリックにはマリアへの祈りがあるのに対して、プロテスタントではマリアへの祈りというものはありません。また、「サクラメント」(聖礼典)の数が違いますし、カトリックでは聖職者は独身ですが、プロテスタントでは結婚を認めているというような違いもあります。その他、いろいろな習慣の違いもあります。
さらにプロテスタント各教派における違いは、制度が違ったり、洗礼に対する考え方が違ったり、お祈りのしかたが違うなど、どちらかというと細かい点が違っていると言えます。
Q. どの教派を選べばよいか分からなくなってしまいそうですが‥‥
A. そうですね。でも、一部の「異端」(「統一協会」や「エホバの証人」など)を除いて、イエス・キリストを信じることによって救いを得るということは同じです。そして、教派の違いとは個性の違いのようなものだと考えることができます。ですから、いくつかの教派の教会に行ってみられて、そしてご自分に合うと思われる教派の教会を選べばよいのではないでしょうか。
Q. 神はいるのですか?神がいるようには思えません。
A. います。そのように信じています。また、神がいるとしたならば、どんなに私たちが「神はいない」と思ったとしても、いるということになります。逆に、もし神がいないとすれば、私たちがどんなに「神はいる」と思ったとしても、いないということになります。そして教会では、「神はおられる」と信じているのです。
Q. 神を信じるなどということは、弱い人間のすることではないですか?
A. たしかにそういうことになるかも知れません。しかし、そこで考えてみたいのです。「わたしは本当に強いだろうか?」と。実は自分が「弱い」存在であると気がついたとき、神との出会いの始まりがあると言えます。
Q.神社の神様とキリスト教の神様とは違うのですか?
A.違います。しかし、そこで「神を求める」という人間の気持ちは同じであると言えます。
Q.キリスト教は「一神教」ですね?
A.違います。キリスト教はユダヤ教やイスラム教のような意味での「一神教」ではありません。キリスト教は「三一(さんいち)神教」です。神は単一の存在ではなく、「父・子・聖霊」からなる「三位一体(さんみいったい)」の神だと信じています。
Q.なぜ教会は、神さまだけではなく、イエスという方を信じているのですか? 神さまだけで良いのではないですか?
A.教会は、神さまと、私たち人間の間を取りもってくださる方として、イエスさまを信じているのです。全く清く、善である神と、私たち罪深い人間とは、あまりにも違いすぎ、大きな断絶があります。私たちは、どうしたら神のところに近づくことができるのかも分かりません。しかし、イエスさまがそれを明らかにしてくださいました。神とわたしたちの間に入って、私たちを神さまと引き合わせてくださったのです。
Q.人間であるイエスが、神の御子であるとはどういうことですか?
A.その表現には、ちょっと注意が必要です。人間であるイエスが神の御子になったのではありません。神の御子であるイエスが、人としてこの世に来られたのです。聖書にこう書かれています。
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピ2:6-8)
Q.なぜ神の子が人間になったのですか?
A.それは、滅び行く私たちを救うためです。私たちが人間であるがゆえに痛み、苦しみ、悩む‥‥そういう痛みや苦しみを、人間となられたゆえに理解し、共にすることがおできになるのです。イエスさまの十字架は、私たちの苦しみ、私たちの死を、代わりにになわれたのです。そのように信じています。
Q.神様がいるなんて、信じられません。どうしたらよいのでしょうか?
A.「神様を信じられない」というのは、あなたの思いですよね。つまり、実際に神様がいるかどうかは別として、あなたは神様を信じられないということですよね。聖書は、実際に神様がいると宣言し、神様の働きを証しする書物です。まずこの聖書を、虚心坦懐に読むことです。聖書に次のようなみことばがあります。"実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。"(ローマ10:17) それからどう思うか、また感想を聞かせてください。
Q.奇跡というものが信じられません。
A.まず、「奇跡」というものをどうとらえるかです。奇跡というと、摩訶不思議な超常現象だと考えられていますが、キリスト教では、神様のなさる業が「奇跡」なのです。たとえば、あなたという人間が今生きているということも、奇跡です。なぜなら、神様があなたという人間に命を与え、生かしていてくださると考えるからです。そう考えると、自分という人間が今ここに生きて存在している、ということも実に不思議なことであることが分かってきます。
当然といえば当然なのですが、聖書には様々な「奇跡」が書かれています。多くの人は、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したりなさったことを奇跡だと考える。もちろんそれも奇跡です。神様でなくてはできないことだからです。しかし同じように、この宇宙が存在しているのも奇跡です。いろいろな不思議に満ちています。それも神様の造られたものだからです。花一輪を見ても、実に不思議に見えてきます。それも神様の造られたものであるからで、その意味では奇跡なのです。
そう考えると、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、水の上を歩いたり‥‥そういうものだけが不思議だと考える方が間違っていることが分かってきます。私たちは神様の造られた世界の中で、神様の働きに囲まれている。つまり、実は、神様の奇跡が満ちている中で、生かされているのです。ですから、聖書から言えば、奇跡を否定したら、この世界もあなたも存在していないことになります。
Q. 初めてキリスト教の葬儀へ行くのですが、香典袋にはなんと表書きしたらよいのですか?
A. 「お花料」または「御花料」と書いてください。
Q. その「御花料」の不祝儀袋はどんな袋がよいのでしょうか?黒白の水引のものでも良いのでしょうか?
A. とくに決まりはありません。遺族の慰めとなるようなデザインの袋であれば、何でもかまいません。黒白の水引のものでも結構です。最近は、十字架の入った御花料の不祝儀袋が、スーパーや100円ショップでも売られていますので、それらを利用しても良いのです。
Q. お通夜はありますか?
A. 「お通夜」というものはありませんが、代わりに「前夜式」というものがあります。式次第はだいたい葬式と同じで、たいてい葬式の前の日の晩にします。
Q. 数珠は持って行った方が良いのでしょうか?
A. キリスト教の葬儀では数珠は必要ありません。
Q. 焼香はありますか?
A. ありません。その代わりというわけでもないのですが、「献花」と言って、花をささげることをします。(しない教会もたまにあります。)
Q. 献花の作法を教えてください。
A. 献花はたいてい前夜式や葬式のプログラムの中の最後のほうでおこなわれます。会場の前のほうに進み出て、花を手渡してくれますからそのまま受け取り、祭壇にささげます。その時、持ち替えて、花の部分が手前に来るように置きます。そしてそのまま短く黙祷をし、それから遺族のほうへ一礼して、退場いたします。(もしくは座席に戻ります。)
Q. 弔電は読まれますか?
A. 弔電は読まないのがふつうです。弔電を送った人のこの世の地位や名誉が葬儀という場において宣伝されたり、たたえられることにつながることは、極力避けるのがならわしです。教会に届けられた弔電は、ご遺族の方にちゃんとお渡しいたします。ただし、遺族の希望により、ごく親しい方の弔電を2〜3通朗読することまで禁じているのではありません。
Q. 弔辞はありますか?
A. 弔辞もないのがふつうです。葬儀は、死者を神の国に迎えてくださる主なる神さまを礼拝することに集中するからです。ただ、葬式と前夜式において、そのプログラムが終了した後、遺族の希望によりごく親しい人が弔辞を述べることはあり得ます。
Q. 49日の法要はありますか?
A. 葬儀の後7日ごとに行われる法要はキリスト教にはありません。1回の葬儀で、故人は天国に行っていると信じるからです。しかし、例えば逝去されて1ヶ月後くらいに、故人を偲んでご遺族近親者等が集まって「記念会」をするのは良いことです。記念会は、まず牧師による「記念式」が執り行われ、終了後皆で故人の思い出を語り合います。
Q. クリスチャンではないし、家の宗教もキリスト教ではないのですが、家族が亡くなった場合教会で葬儀を引き受けてもらえるのでしょうか?
A. 原則として引き受けます。教会員になっていただく必要はありません。ただし、教会の葬儀は聖書にあかしされている神様に礼拝する形で行われることを理解していただく必要があります。亡くなられた方を愛してくださるイエス・キリストと父なる神にすべてをお任せする気持ちで臨んでください。また、葬儀の形式等は、教会の指導に従ってください。
Q.教会の墓地というのはありますか?
A.当教会にはあります。また、他にも墓地を持っている教会が増えてきました。ただし教会の墓地というものの多くは、霊園を所有していてその中に各家庭が自分のお墓を建てる、というものではありません。教会の一つのお墓の中に、みんなの遺骨をいっしょに納める形式がほとんどです。例えば、納骨堂が建っていて、その納骨堂の中に入ると、棚がしつらえてあって、その棚に遺骨の入った骨壺が並べられて安置されているという形が多いと思います。
Q.遺骨をお墓に納めるときにはどうしますか?
A.「納骨式」(または「埋葬式」)というものをします。
Q.年忌の法要のようなことはするのでしょうか?
A.教会では、年忌というものはありません。すでに故人は天の父なる神の手にゆだねられているからです。しかし故人を偲び、天の父なる神に祈るということは良いことです。毎年の記念日(命日)を覚えてその日に「記念会」をするというのも一つの方法です。詳細は各教会にお尋ね下さい。
また、たいていの教会では年に一度、「永眠者記念礼拝」あるいは「逝去者記念礼拝」というようなものをおこなっています。これは逝去者を憶えておこなう礼拝で、逝去者の遺族毎におこなうのではなく、すべての逝去者の遺族を招いておこなうものです。11月の第一聖日の「聖徒の日」におこなう教会が多いですが、8月や9月におこなう教会もあります。
Q.仏壇のようなものはありますか?
A.仏壇は用いません。しかし、天に召された家族を憶えるのはとても大事なことですので、部屋のどこかに小さな十字架を置き、そのそばに逝去者の写真を置くという方法は、よく行われています。またそれでは不十分だと思われるなら、「家庭用祭壇」とか「キリスト壇」というものも販売されています。
Q. 信徒でない人の結婚式をしてくれますか?
A. O.K.です。神の前で正しい結婚をすることは、キリストの御心です。富山二番町教会では、結婚式の前に、おふたりと牧師とで、数回の「結婚準備講座」をいたします。これは、おふたりが真実で祝福された結婚をするためのお手伝いをするのです。具体的には結婚について勉強していただきます。はじめは「面倒くさい」と思われる方もいるかも知れませんが、やってみると「して良かった」と皆さん言われます。また、聖日礼拝に5回以上出席していただいております。これは信者になれというのではありません。結婚式自体が礼拝ですから、礼拝の意味を知っていただくためです。人生の大半は結婚生活です。それが取り返しのつかないものとならないように、神の助けを求めて下さい。
また、日曜日は教会の礼拝や大切な集会が行われる日ですので、日曜日の挙式は原則としてお断りしています。その他の日も教会の集会や行事を優先させていただくことをご了解下さい。
Q. 飛び込みですぐに結婚式を挙げてくれますか?
A. これもよくある質問です。テレビや映画の中ではそのようなこともあるようですが、それは映画の見過ぎです。教会はコンビニではありません。また、商売で結婚式を挙げているのでもありません。お二人が神様に祝福された、幸せな結婚ができるようにお手伝いをするのです。そのためには、先に述べたような準備が必要です。だから、飛び込みで直ちに結婚式を挙げる、というようなことはしておりません。
Q. いきなりでなければいつでも結婚式を挙げてくれますか?
A. 教会では日曜日に結婚式をすることはむずかしいです。というのは日曜日には一番大切な礼拝がありますし、またその終了後もいろいろな集会や行事があるからです。ですから、日曜日以外の、教会の集会・行事のなく、牧師の都合がつく時ということになります。そこはご了解下さい。
Q. 結婚式の料金はどれほどですか?
A.教会では、結婚式場業者やホテルの結婚式場のように、商売で結婚式を挙げているのではありませんので、料金というものは定めておりません。ただし、教会では、結婚式のために牧師は特別の準備をしますし、奏楽者を依頼し、また、教会員にも当日讃美歌を歌ったり清掃をしたりとお手伝いをお願いします。また、実際にかかる費用も、水光熱費の他に、結婚式プログラムの印刷費用など、諸経費がかかります。これらのことに感謝する気持ちを、なによりもふたりを結び会わせてくださった神様への感謝と共に、「献金」として表します。その額については、神様への献金ですので、基本的には感謝の心をもって自由にささげるのですが、ご不明でしたら教会にご相談下さればと思います。
Q. 結婚式では、どのようなことをするのですか。
A.キリスト教の結婚式は、「礼拝」として行われます。つまり、神様を礼拝する、その中で結婚の約束が交わされるのです。以下、当教会での結婚式のプログラムを記しておきましょう。
前 奏 新婦入場
讃 美 歌
聖 書
説 教
祈 祷
式 辞
聖 書 夫婦に対する教え
誓 約
指輪交換
祈 祷
宣 言
讃 美 歌
祝 祷
後 奏 新郎新婦退場
この中で、クライマックスは「指輪交換」だと考える人が多いのですが、実はその前の「誓約」のほうが大切です。誓約は、お互いを生涯の伴侶として連れ添うことを、主イエス・キリストの前で約束していただくのです。その証として「指輪交換」があるのであって、誓約が重大なのです。そして指輪交換の後の、牧師による「祈祷」が大事です。なぜなら、人間は弱い存在なので、生涯その誓約を守ることは、人間だけの力では難しいから、誓約を神様の愛と力によって守ることを祈るのです。こうして、誓約は神への祈りによって、はじめて誓約となるのです。
Q. 結婚式は時間的にはどのくらいかかりますか?
A. 教会によりますが、当教会ではだいたい30分程度です。
Q. 結納のようなことはするのですか。
A. ありません。婿さんの家がお嫁さんを支度金を払って買うようなことはいたしません。キリスト教結婚式においては、新郎新婦は対等な立場ですし、両家の立場も対等です。
ただし、これは結納とは意味が全く違うのですが、結婚式を挙げる半年ぐらい前に、「婚約式」というものをするのがよいでしょう。婚約式は、二人が結婚を前提にその後のおつきあいをすることを、神様の前に約束することです。これによって二人は、結婚の準備の時をお互いのことを考えながら真剣に過ごす決意をするのです。またそれぞれの家族は、お互いを兄弟姉妹として受け入れ合うことを表すのです。このことによって、周囲の人たちに対しても、二人が公認のカップルであることを知らせる意味もあるのです。
Q. 婚約式では、どのようなことをするのですか。
A. 婚約式も礼拝の形でおこなわれます。礼拝の中で、神様の前で結婚に向けて歩むことを約束するのです。その中で記念品を交換します。交換するものは、エンゲージリングでなくてもいいのです。聖書や讃美歌、あるいは時計など、お互いの記念になるものを交換して相手に贈るのです。